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両親の介護も一段落 双極性2型障害と気長に共生中

神様の居場所

今日もかなり暖かい。このあと雨になれば桜も散ってしまうかな。今年はほとんど桜の実物を見ずじまいになりそうだ。つまりそれだけ外出していないってことだよね。どうも毎日しんどい日が続くので、本当に必要最小限の買い物くらいにしか行っていなかったりして…。今月後半はちょっと出かける用事もあるんだけど、果たしてどうなるだろうか。

昨日、ふと思い立っていままでに描いた背景の花などのデータをサイズを小さくして他のものに応用出来ないかと加工を始めたんだけど、あまりにも数が多くて途中で休んでいる状態。まあ、ゆっくりやればいいんだし。今日はクロッキーブックを拡げている。明日はいつものクリニック通院日。そろそろ血液検査でもやろうかと言われるかな。最近内科の方はご無沙汰状態。こういう検査も神経科でやってくれるし、血圧などの薬もくれるから、急性の病気でなければ有り難いのだった。

Web拍手ありがとうございます。 >たくさん作品を見てくださった方、どうもありがとうございました。またどうぞこれからもご贔屓にしてやってくださいませ。

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宗教の名前を借りた悪行が世の中から後を立たない。神の名を借りて宗教心を盾にして少女達に暴行したり、信者からたくさんのお金を巻き上げたり、それはその人間が悪いのは勿論のこと、そういう人間にを神にまつりあげてしまったというのは、まわりの人間にも罪はないのだろうか。

私のような宗教心のない人間から見ると、どうしてこんなにあからさまに怪しいものに引っ掛かるかなあ、と疑問に思える宗教団体のようなものはたくさんある。ただ盲目的に信仰しろ、というのはまず危ない。それにどういう名目であれ、多額の金品を要求するようなものも駄目。盲目的信仰はひとつ間違えると洗脳になってしまう。なにが正しいことか判断する能力を見失なわせてしまう。

生きるのに困難が多くて、誰かに頼りたくなる時だってあるのが人間なんだけど、そういう気持ちを自分の欲望と悪のために利用する人間だっているからなあ。自分自身で考えることや判断することを人に任せて放棄するのは楽だけど、実はとても怖いことだ。

私が死後の世界が存在して欲しいと望むのは、人間と法の手で裁ける限界を越えた悪行を見た時だ。死刑判決が出たとしても、それで犯罪者を楽にして欲しくない、という気持ちがある。罪を犯した人間が死んでそれでおしまい、というのはなんだか腑に落ちない思いがする。彼らにはむしろこの世にあって自分の罪を思い知ってから、それを悔い、それをつぐなうことをして欲しいし、それが出来なければ死後には地獄に落ちて欲しいとも思うのだ。

だからといって死刑反対論者でもないのよ。犯罪の抑止力として死刑制度があってもいいな、とも思う。でもこれも死後に地獄がなければいまいち怖さがないような気がするけれど。

自らが高みに立って、権威を借りて指導するのは本当の宗教ではないという考え方もある。優れた霊能者が見てきた霊界では歴代のローマ法王日蓮上人でも地獄にいる、と言われたりしているそうだ。本当のことかどうか、確かめるすべはないけれど、ふと、かつての清水寺の管長さんの言葉を思い出したりした。

「本当の観音さまはみんなの隣にいたはるの。ふつうの人の顔をしたはるの。家族やら、友達やらの身体を借りて、みんなを助けにきたはるの」と。

ごくごく普通の市井の人々の中に時として顕現する神仏。ふつうの人間の姿でそっと手を差し伸べてくれる神。そんなささやかな「神様からのサイン」を見逃さずに気付ける人間でありたいと思う。

偽者の神、神の名を借りた犯罪者につけいられないように、感性を研ぎすませていかなければ、と思うのだ。彼らに傷つけられる幼い魂を少しでもなくするためにも。

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