すっかり正常になった網膜
うん。やっぱり円はちゃんと円に見えるし、もう視野に虫も飛んでないです。先月に伏見稲荷の石段であまりにこころもとない足取りでいたから、おきつねさんがじーっと見てて、それでもって神さまが「治しちゃるか」と思って治してくださったのならすごい嬉しいな(^^;) そういう想像が楽しくて仕方がないのでうちの神棚にお礼を述べています(^^;)
すいません。私は相手が神仏でもついつい真面目に遊んでしまいます(^^;)つい親近感が…… (^^;)
伏見稲荷のお山にはちゃんと眼病の神さまがいらっしゃいまして、その名も「眼力さん」と言うんですが。
ここも霊験あらたかだと聞きます。
ただ私はとてもここまでは登れません。足の方は一足飛びに丈夫になるのは無理ですしね。このごろ買物も歩いてますけどね。
ああ、でもお稲荷さんが怖いと言う人もいるんだよな。不思議だなあ。子供の頃からずっと好きな私にはいまいちわかりづらいです。
まあ、でも願い叶ったお礼の千本鳥居ですから。やはりそれなりのご利益はあるんだと思います。
このごろ頻繁に自分は宇宙人かと思う(-_-;)
なんかねー、私が見ている世界と、他の人が見ている世界は本当はとんでもなく違うのかもしれないと思うことがあります。
私が思う「あたりまえ」と他の人の「当たり前」が違いすぎることも感じます。
たとえばこののび太くんのセリフと、投稿者さんのお言葉ね。
実はそれすごい才能なんだって大人になったら気づくんよ pic.twitter.com/JoyNw8wwTN
— センシティブはなくそ (@ah_yesFasan) 2021年12月13日
ああ、まあ、そうなんだろうな、と思いつつ、私自身はいまも結構のび太くん寄りだったりする。
このブログのトップに上げている「よき自立とは良き相互依存である」というのは、20代くらいの時に、山田太一さんのドラマの中で深く納得したから、いまだに心に残っているのですね。「日本の面影」でした。
私にとっては「困った時はお互いさま」なのはすごく自然なことなんです。別にお返しも見返りも必要ない。すぐに返ってくるのもでなくていい、どこか遠い未来で誰かに返ればいい、という、本当にペイフォワード=恩送りの観念なんですよね。
基本的に人の関係に上下もなければ差別も偏見もない、と私の両親は本当に言葉で言わず、背中で行動で示して教えていたな、と思います。
それってプライドなの?
だから私の『お互いさま」も同等の人間同士なんですよね。
ただ、それがこの頃では必ずしもそうじゃない、と知りました。
病気になったり、障害になったり、高齢になったりで、人間どこかしら不自由が出来てくるのは当たり前のことですね。自然の成り行きですね。でもそういう不自由になって困るような事態になっても「人の助けを借りるなんて、みっともない。恥ずかしい」という人がおられます。
えー、なんでなんで???私それってわからない。そもそも公的な福祉の援助はそういう人のためにも作られたんだと思います。過去に不自由をしていた人たちがいらして、その人たちが苦労して整備された制度です、それを使わせてもらって、さらによきものにして未来に手渡すのが自分たちの義務だと私は信じているのですが。
自分のことしか見えてない人もいますよね。こういうのもプライド??
もうそれ以上頑張れないからいいと思う。他人の手でも借りましょうよ。
知り合いでいま支援を求める人がいらしての最大の障害がその人の親なんです。他の部分では協力してくれても、公的援助に頼るのは「恥ずかしい。甘えるな」って。もはや誰が見ても家族だけでは無理な障害、病気、介護の問題に直面してるのに、です。そんなことを言うてる場合と違うんです。困ったものです。福祉がなんのためにあるのかなあ、って。
本当に公的機関の専門家もそういう話を聞いて思わず絶句される感じです。援助したくても拒否されたらなにも出来ません。
Quoraというサイトでのひとつのご意見に出会いました。
人に何かを求めること、助けとは「自分ができないこと」を相手に明示し、かつ「それをやってもらうこと」となります。これはそういうルールや感覚で生きた人には屈辱に近いと思います。自分の弱さをひけらかすと思ってしまうからですね。
もちろん、自律的に動けるけど助けを求める人もいます。この両方を備える人の特徴は、おそらくですが、
- 自分でやりたい、自分でやるのが良いと思ってきた
- しかしなんらかの挫折や思い上がりや失敗や人間関係の失敗があった
- そこから何かしら人とやること、助けを求めること学んだ
- そして今がある
というようなあらっぽいストーリーですが、失敗がなければ学びづらいことだと思います。なぜなら、自分が出来る=人より出来たことで、有能感、万能感が生まれ、自分はすごいと天狗になるのが「普通」ではないかと私は考えているからです。
逆に天狗にならずに出来た人は何かしら失敗をしたか、既に相当の教えを叩き込まれたか、想像力や何か別で補ったかなどがあるから、出来たと思っています。
もっといえば、助けを求めなくても出来てきたけど、それができなくなった。それは例えば介護なども老化や病気などであり多くの人はサポートを嫌がるのではないでしょうか。仮にそれを認めていたとしても。
それは、助ける助けられるの関係性について、上下関係を見てしまったり、プライドもありますが、そういう「助ける」ことについてのフラット感、ニュートラルさがないから故でしょう。上のストーリーを経験していれば、わりとフラットになって、「助けることもある助けられることもある」ということを理解してそのように行動できるのかなと思います。
ちなみに神さまでも「私は困っていないから助けはいりません」と助けを拒否する人は救えないみたいです。それも真理だなあ、と思ったり。素直に救いを求めるほうが好印象なのは当然ですね。
専門家に学ぶいいチャンスでもあります
そうなのかな?
弱みとか一杯あるけど、出来ない事は専門家や詳しい人に教えてもらうのは嫌じゃないし。いつか自分得意なことでお返しが出来たらそれでもいいと思っているけど。
得意不得意もひとそれぞれあって、だからこそお互いさまで職業としても成立するんじゃないですか?と私は思うんですが。
これもなかなか受け入れてもらえない事が多いです。こういうのは相当フェアだと思うんだけど。誰かの手をお借りすると、ずいぶん介護なども病気すらも楽に感じます。
わざわざ辛いままでいいというのはもしかしたら苦行好き??(^^;) 少し人のご好意を借りるだけで楽に生きられるのにね。
元気な時に祖母をはじめとして、多くの人の世話をしてきた母は最晩年、特養で他の人の世話になることを嫌がってはいなかったと思います。母の中でも「お互いさま」は根付いていたのだと思います。
もう、これ以上自分だけでは無理、という段階で誰かに助けを求める事がどうして恥なんやろう?やっぱりわからない。信用されてないみたいで哀しい(ノ_・、)
「助けを求められないのは弱い人。助けを求める事が出来るのは強い人」というのも見かけました。いやー、人様に助けてもらったくらいでなくなるチャチなプライドはないなあ。ただただありがたく、いつか誰かにお返ししたいと思うだけです。出来れば困っている人にね。それも恩送りですね。
こういう事を本当に言葉じゃなくて行動で教えてくださる方が多くいらして、私の人生は大変恵まれています。実際に助けてもいただきましたし、本当に感謝に絶えません(^^;)
ありがとうございます(^^)