わが家の水道工事は完了です(^^)
わーい、水道工事が終わりました。来月初めまでは1、2階の工事がまだあるようですが、わが家は一段落。
27インチiMacは衝立にちょうどいいけど、存在感が半端なくて、関心がある人にはやっぱり聞かれます。まあ、仕事と趣味も兼ねて使ってます、とつい正直な返事をしてしまいます(^^;) 27インチ使うのはやっぱりグラフィックだろうしな。壁のポスターフレームでもわかるよな(^_^;)
あれ?今気付いたけど、キッチン、洗面所、トイレ、お風呂と水回りの工事を受けて、そのへんのものをどけた所を一応全部掃除してるじゃないですか。ほぼ無意識にやってしまってた。疲れるはずだと納得。
トイレ掃除のブラシとか油みたいな真っ黒の汚れが付いてるし買い換えないと駄目ですが。まあ、そんなに高いものじゃないしね。
今週はヘルパーさんにも休んでもらったし、なんかいつもより頑張ってた(@@)
このパターンは介護中に似てるかもしれない。他の目的のついでにそのへんを綺麗にする。気持ちいいけどやっぱり疲れるはずです。やれやれですね(^_^;) 性格的にゴミ屋敷が許せないので。(お風呂に入れるのもそのせいかと…)
迷惑をかけるのが死ぬことなんだよ
昨日、JR元町駅のホームから電車に飛び込み、窓を突き破って亡くなられた男性がいらしたそうです。そのために車内におられた数人の乗客が巻き添えで負傷されたというなんとも痛ましい自死のニュースです。
「死ぬときに迷惑をかけるな」という憤りの声が大きかったし、本当に痛ましいとしか言えない事故でしたが、でもそこまで追いつめられた人は「誰かに迷惑をかける」という認識はもはやなかったと思います。そう思えたら生きられたんじゃないかと。そこまで視野狭窄になってしまうのが自死の時の精神状態だと思います。
でもね。「迷惑をかけるな」というのはありますけど、実はいまの文明社会の中では人は誰にも迷惑をかけずに死ぬことは不可能じゃないかと思います。人間だからね。親族や親しい人がいて、病気や事故などで病院で看取られて亡くなるのはまだ幸福ではありますが。
私もあまりこの言葉好きじゃないけど、ひっそりと孤独死する場合など、大家さんや後片付けする業者さんたちのお世話にならないといけません。大自然の中で遭難しても捜索の人手や費用が必要ですし、ひっそりと土に還るのはよほどでないと無理だと思います。衛生上、火葬はしたいしね。
死んだら自分の意志では肉体が動かせないんだから。誰かにやってもらわないとどうしようもないんだし。その迷惑の度合いは違うとしても。
この文明社会の中で死ぬときは誰もが迷惑をかけずに死ぬことは出来なくなっている。それを迷惑と取るか、誠意で送ってくれる人がいるかがその人の生き様と死に様次第ではないでしょうか。そんな気がします。迷惑を迷惑と思わない人を遺せる幸せというか(^^)
だからやむなく自死を選んだ人にもう少し優しく言葉をかけてあげてもいいような気がします。それは衝撃で心を病む可能性もなきにしもあらずですし、遅刻でこうむる損失もあるかもしれませんが……。でも出来るなら、一時だけでも冥福を祈ってあげて欲しいな、と思いました。
甘いですか?私。いや、甘くてもいいです。誰かは悼んであげないとな。コメント欄を見ながらそう考えていました。そういう悲劇を少しでも減らせたらな…。
見返りを求めない愛
仏教で利他の愛というのはつまり「大我の愛」なんだそうです。「見返りを求めない愛」ね。
私の原点はやはり両親の愛だと思います。どこまでも変わった子である私の人格を独立したものととらえて尊重してくれました。いい大学に入って立派になって、とかそういうこと全然考えていませんでした。老後の面倒見てくれとも、まったく考えていませんでしたし(^^;)
でもそれだからこそ、私はどこまでもちゃんと介護してあげたいと思いましたし、そのことについてはまったく後悔していません。むしろものすごくいい勉強をさせてもらったので、いまでも感謝に耐えない次第です。
家族なんだけど、そうするのが当たり前の成り行きだったし、やっぱりお互いに見返りは期待してなかったと思います。両親にとっては孫たち、私の甥と姪に対してもそうですねえ……。よくしてあげたいとは思うけど、見返りは期待してないです。ただここの片づけは頼みたいからその費用は置いておきたいとは思うけど。
それを目論んで子供の出世を願ったら小我の愛になってしまうんですよね。自分に返ってくることを期待しているでしょ?見返りを期待しているよね。「お子さん偉いわね」というような世間の称賛を期待していても小我。お金持ちになる期待も小我。つまり「利己」。利己愛もあってもいいとは思うけどさ。
お返し出来るものは「信頼」くらい
だから家族以外の人に対しても基本は見返りは考えていないんですよね。あえてお返しするものがあるとすれば「信頼」くらいのものかもしれません(^^;) それも生きている限りの揺るぎない信頼です。
大好きな人にずっとそばにいて欲しい、というのは「小我の愛」なんですよ。大事な人だから、本当にその人がその人らしく生きられるように心を尽くすとか応援するとかになると、もう大我の愛になると思いますけど(^^;)
自分のものとして独占しないというのが肝心なところですね。我が子に対しても同じだと思います。うちの親はそれをしてくれたから、だから同様に私がやりたくて自分の意志で看取りました(^^;)
自分でやるぞ、と決めたから、その時瞬時に五十肩の痛みが消失して腕が動くようになったんですが。あれは心因性というより悪くなるんじゃなくて、瞬間に治癒した経験でした(^_^;)
母の在宅介護はそれで可能になりましたし。「やるなら頑張れ!」と誰かが背中を押してくれたんです。ありがたい(^^) 私はこういう経験もしてるから(^_^;)
私ね、本当は両親にもっと依存していて、2人がいなくなったらもっとダメになるんじゃないかと思っていました。膝から崩れるかも、と思ってました。でもどうだろう、きちんと看取ったら逆にしっかり立っているのがわかりました。依存していなかった。
これは経済的な意味ではなく、精神的な意味合いです。これは親子だけでなく、夫婦や友人関係でもそうですね。独立した別人格がお互いを尊重して生きるの。経済的にどうこうというのはあまり大きな条件ではないですね。肝心なのは自分の頭で考えて選択していけること。
どちらかが病気や怪我やその他のことで動けなくなって、お互いの支えが必要になってもそれは依存ではないですね。負担が全然違います。介護していてもその意識で違ってきます。相手を尊重するから自分のもののように心中しようとは思わないの。それよりも福祉制度にお願いしたほうが相手のためにもずっといいです。
私は自立出来ていたと両親の死後に気がついて、さらに感謝が深くなった次第です。これも立派に大我の愛の成果なんですね。本当にいまも感謝しか出てこないです(^^;)
父が亡くなった時、お世話になったケアマネさんと役所に行く時に「今は不思議にやりきった、という安堵感が大きいです」と話したことを覚えています。
最期のお別れの時に参列者のみなさんが花を入れてくださるので、私は頭の上から「ありがとう」と父のおでこにキスしたな。でも肉体の別れとは別に身近に気配を感じていたから、本当にそのへんにいたと思います。グリーフがマシだったのもそのおかげかも(^_^;)
四十九日ってよく言ったもので、そのあたりまでは故人は身近にいますね。だから好きなものを供えてあげるといいと思います(^_^;)
目茶苦茶いい経験をさせてもらいました。私が病気であっても介護心中とかそういうことにはならなかった可能性が高いです(^^;) それだけの力をつけておいてくれたから。強くなければ優しくなれない、と2人の言葉が聴こえそうな気がします(^^)
結婚前の両親のラブレター、まだ未開封です。あれがあるという事実だけで私の強力な支えになっています(^^) ふたりのあいだに大きな愛があって、自分が生まれてきたという。
私が強く優しく生きることが両親に報いる最大の供養。おかげさまでいまの人生ものすごく充実しています(^^)
今日も天界の二人の上に無数の花が降り注ぎますように(^^)