半端なくゴミが出るのよ
まいったなあ…。片付けが部屋の奥に及ぶほど、売り物にならない状態の本が多く出てきます。仕方がないから燃えるゴミとして袋に入れます。それらを入れていた箱も潰してたたんでまとめます。
昨日はまごころ収集の日でした。それで出した段ボールが、うーん、どれくらいあるかなあ?みかん箱よりも大きい箱に立てて入れて2、3箱分。でも持って行ってもらえませんでした。
区役所に電話で訊くと「週に一度の集配で袋に3個分くらいまで」とかで。それだと燃えるゴミ、資源ゴミだけで一杯になります。段ボールとかは小分けにして出して欲しいとのこと。こういう時に車があればなあ。運転ができればなあ…。直接処理場に持って行けるのにね (*-д-)-з
部屋が片付くまでは力仕事から解放されないみたいです (ーー;)
嫁入り先を探す
あ、そういえば、メルカリで売れなかったスクリーントーンですが、旧知のお絵描き仲間の方に引き取っていただけることになりました。まとめてみたら、結構な枚数になりましたが、利用していただけるのは嬉しい限りです。Nさん、どうもありがとうございました (^_^)
あと、本の方ですが、昭和52年前後に発行された萩尾望都作品集や、JUNEの創刊号を含めたものが20冊くらいあって、東京の古書店に査定していただいて、買い取っていただけました (^_^) マニアックな本はやっぱりニーズがあるんだね。
2度に分けて送った送料を引いても5,000円くらいになりました。これらも必要とされる人に出会える事を願って送ったので、いい出逢いがあるといいなあ、と願っております (^_^;)
ネットオフだとこんな価格はつかない。まだ残ってる「TIGER&BUNNY」の設定資料集はどうしようかと思っております。
他人を信じる=自分を信じる
ところで。
私は基本的に人を信じやすい人間だと思います。
でもこれについてよく考えてみると、正確には「人を信じられる自分を信じている」と言うのが正しいかも、と思いました。
現在に至るまで、若い頃から本当にいろんなことがありました。「今、この人を信用してもいいのか?」という場面には何度も遭遇しています。で、そういう時にはよく考えてみて(あえてなるべくまわりの意見は聴かないで)「大丈夫だと思う」という直感に従っています。
直感だからまずはずれないですよね。ああ、やっぱり信じててよかったなあ、という結果になります。相手を信じることは自分自身を信じることにもなるわけです。上手く言えないけど、なんとなくわかります??
「私が信じられると判断したんだから大丈夫。私のその判断は信用してもいいものだ」というセオリーになっていて、それを何度も繰り返すと本当に外れなくなります。
「この人は他の人からはこういうふうに思われているらしいけど、私はどう考えてもそれとは違うと思うので、そう思える自分の判断を信じよう」という感じ。
仮にですが、信じても駄目だった場合には「私の見る目がなかったのね」で済みますし、必要以上に深刻にならないでも済みますが、でもほぼそういうことにはならないですよね。面白いです (^_^;) あ、やっぱり私の直感って正しかった、と思います。
さらに面白いことにはこういう経験をした人とは、あとからかなり深いおつきあいが出来る関係になれることですね。なんつーか、もう傷つくのも怖くない (^_^;) 信頼が揺るぎないものに変わるんですね。
やっぱり直感で判断してるかな
私とて、詐偽メールや詐欺電話の類いにはとても慎重です。まずひっかかることはありません。でも生身の人間が相手だともっとわかりやすいですし、正確な判断が出来ると思います。いままでの経験ではまずはずれてないと思います。
「信じてもいい相手かどうか?」は自分自身の判断なので、その判断を信じてもいいのかどうか?になるわけですが、だからこそ、相手を信じる事は自分を信じることになる次第です。
なんというか、「鏡」なんですよね。自分が世界に対して見た風景やそこから返ってくるものが自分を反映しているのです。だから他人を信じるとそれが同等に返ってきているなあ、と思います。
なんだか最近「自分がイメージした世界が現実化する」というのも理解出来る気がします。
世界が自分に対して悪意を持っていないというのも、自分が世界に対して悪意を持っていないってことじゃないかなあ?と思いますし。イメージが現実化するのもホントかもね、と思っていたりします (^_^;)
こんな言葉を見つけました。
これって恋愛だけじゃない、人間関係の基本的なものになっている考え方のような気がします。