三連休なんですねー。お彼岸ですね。だからまた両親の思い出などを書きたいと思います。主に介護中のことですが。
脳が半分死んでしまった
父が倒れたのは脳梗塞が原因でした。もともと心房細動があって、心臓で出来た大きめの血栓が脳血管で詰まったものと言われています。だからかなり太い血管がアウトになった感じです。それでも発病すぐの時はまだ喋れたりしていたんですが、徐々に脳細胞が死んでいって、結果的に右脳全体が死んでしまいました。CTやMRIを見ると半分が真っ白な状態でした。
救急病院の中でも少しリハビリをしていましたが、やがてリハビリ専門の病院に転院になりました。ここは非常に不便な場所でした。いまでこそ改善されて評判も回復していますが、父が入院した当時は2、3年前に入院患者が爪を剥がされたという事件があって、ニュースになったところでした。
だからまだ父がいた当時はその名残があったのか、虐待に近い扱いを受けた、と父が言っておりました。「でも女は殴れん」と言ってましたし…。まあ、いろいろ想像つきますが、そういうことがあって、早く家に連れて帰ろう、と思ったのも正直な気持ちです。
やはり家がよかったらしい
脳梗塞というのは、脳がダメージを受けた場所によって、性格が変わってしまうこともあるそうです。
父も当初は自分の変化が受け入れにくかったのか、不穏な感じでよく大きな声を出していました。まあ、これも病院に置いておくには不安な要素だったんですが。
家に帰ってからも父はしばらくはよく声を出していましたが、「ここは家」とわかっていることと、家族が普通に生活していること、訪問看護師さんのことを信頼しきったことなどで、徐々に落ち着いていって、声を出すこともなくなりました。
そうして、逆に母や私に気遣ってくれるようになりました。夕食(胃ろうですが)と投薬を終えて片付けがすむと、母なり私なりが「早いけど電気消すよ。おやすみ」と言って隣の部屋に行きます。静かだから父は寝ているな、と思って洗濯物をそーっと持って言ったら、薄明かりのなかでぱっちり眼を開けていました (^_^;) もう、すんごい気遣ってくれて、ありがたいのなんの。
脳が半分死んでいても、父はいつまでも父でした。最期の日の前日「パパ、頭はクリア?」と尋ねると「うん」と言ってくれたので、本当に亡くなるまで私が知っている限りの話をおさらいみたいにしていて、「大丈夫、大丈夫」とこれから死ぬ人に、私何回大丈夫って言ったかなあ? (^_^;)
その時のおさらいの話を「ホントにそうだったぞ、ほれ」とか言っていろいろそっと助けてくれているような気がしています (^_^;) 非表示レイヤーの何枚か向こうでね (^_^;) せっかく応援してくれてるんだから、ちゃんと受け止めないと (^_^;)
母はちょっと慌て者だったかな (^_^;)
母も、最後はほとんど話さなくなっていましたが(話せなくなっていたのかもしれませんが)、特養の介護士さんたちから「いつもお世話すると頭を撫でてくださいました (^_^)」と複数名にお聞きしているので、そのへんも母らしいことだなあ、と思いました。
やはり最期に近くなった時は特養のスタッフのみなさんのほうに親しみを感じていたのかもしれませんね〜。本当に良くしてくださいましたしね (^_^)
もうちょっと元気だった時は私が行っても「はよ帰り」と言ってましたけど。でも私がいないところで「自慢の娘」だと言っていてくれたことは本当に嬉しいです。最期まで母が自慢してくれる娘でいようと決意しましたもん。だからそういうことを励みにして頑張れた気もします。
母の葬儀で流してもらった曲。
SMAPの「オレンジ」であんなに泣けるとは思わなかった。きっと一生忘れない。大好き! (^_^)
あ、ちなみに母の葬儀は無宗教で家族葬でこじんまりやりました。それだけに手作りの葬儀っぽくてよかったです。いまでも条件反射的に「オレンジ」で泣いてしまう私 (^_^;) でも本当に忘れられない曲になりました。
母と約束したメッセージ、臨終には間に合わなかったけど、葬儀の時はちゃんと伝えられてよかったです。
まあ、それなりに大変な人生だけど、私を命がけで生んでくれてありがとう!そちらでも私は二人の自慢の娘でいられてますか? 父へ、そして母へ (^_^;)
どうしよう。…二人からの愛情を受け止めて、私いまものすごく幸せだと感じてて涙が止まらない (^_^;)
帽子着てるのが私で抱いているのが母。左が父で両手を従兄の肩に置いてます。
乳母車に乗っているのが従姉で、押しているのがひいばあちゃん。
あ、これAIで自動着色してもらったものです。