昨日、郵便局からの帰りに、あれは母じゃないかと思える蝶に逢いました。
アオスジアゲハで、アスファルトの道に撒かれた水を飲んでいました。母だとすると…これは…そろそろお酒が欲しいという意味かもしれない、と勝手に解釈しています。
父の時は小さな黄蝶でしたが。死後ひと月くらいあとで、晩秋の街中、コンビニに行く時にふいに現れました。しばらくゆるやかに自転車と並走して消えました。でもそれも直感的に父だろうな、と思いました。
自然の少なくなった現在、こういう街の中ではまず蝶を見かけることがありません。
見るとしたら家族に死者が出たあとだけなんですよね。
どなたの話かわかりませんが、走行中の新幹線の車内にふいに蝶が現れて、それに気付いた人は「ああ、あの人が亡くなったか」とすぐに思ったそうです。
そして、昔から虫の姿を借りるといわれている魂ゆえに、この時期に虫を見ても殺生が出来なくなります。べつに仏教にこだわるわけじゃないんだけど、そういうことは素直に守っている自分にむしろ驚いています (^_^;)
そういう心象が好きなんだろうな。遠野物語の世界、大好きだし。
「胡蝶の夢」と人生を思う。はたしてどちらが夢なのか?
どちらが夢でも気付いたときに記憶に残るいい夢をたくさん見たいと思いますね。
世界各地にチョウが人の死や霊に関連する観念が見られる。キリスト教ではチョウは復活の象徴とされ、
ギリシャではチョウは魂や不死の象徴とされる。日本でも栃木県宇都宮市で、盆時期の黒いチョウには仏が乗っているといい、千葉県でも夜のチョウを仏の使いという。
チョウを死霊の化身とみなす地方もあり、立山の追分地蔵堂で「生霊の市」といって、
毎年7月15日の夜に多数のチョウが飛ぶという。
秋田県山本郡ではチョウの柄の服を好む者は短命だという。
「春に最初に白いチョウを見ると、その年の内に家族が死ぬ」「チョウが仏壇や部屋に現れるのは死の前兆」という言い伝えもある。奥州白石では、チョウが大好きだった女性が死に、遺体から虫が湧いて無数のチョウと化したという話が伝わる。
また秋田県上総川の上流で、かつて備中という侍が沼に落ちて死に、チョウに化身して沼に住み着き、現在に至るまで曇った日や月の夜に飛び上がって人を脅かすという。そのことからこの沼を備中沼、または別蝶沼ともいう。Wikioediaより抜粋
国内の蝶に関する伝承も面白いですが、エリザベス・キューブラー・ロス博士がアウシュビッツの収容所の壁に幻視したというのもたくさんの蝶でしたし、中国でも「胡蝶の夢」の説話は有名ですよね。
洋の東西や時代を問わず、蝶というのは常に人の魂の象徴として見られていたようです。不思議ですね。
こちょうのゆめ【胡蝶の夢】
〔荘子が、蝶となり百年を花上に遊んだと夢に見て目覚めたが、自分が夢で蝶となったのか、蝶が夢見て今自分になっているのかと疑ったという「荘子斉物論」の故事による〕
① 夢と現実との境が判然としないたとえ。
② この世の生のはかないたとえ。 「春の夜のひと時、-の戯れに/謡曲・船橋」
この作品は2011年3月、東日本大震災で犠牲になられた方々の追悼の意味を込めて描いたものです。
あの震災は、なにかを根底から揺り動かした特別のものでした。魂から揺り動かされた気がします。そしてそれをきっかけに何かが変わった人も少なくないと思います。
百(もも)とせの 花にやどりて過ぐしてき この世は蝶の夢にぞありける
大江匡房