誰かのせいだなんて言わないで
昨日の話題となんとなくリンクしています。
私の姪には現在、0歳と3歳のふたりの子供がいます。高校を卒業して子供が生まれるまでは介護士の仕事をしていました。でも去年家を新築してローンがあるから、とまた介護士の仕事に戻ると思います。
夫は消防士兼救命救急士なので、時間的に不規則な仕事です。でももと義妹(もと弟の妻)は保育士で、それこそ赤ちゃんや幼児の子育てのプロなので、預けたら安心して姪も仕事復帰出来ると思います。
で、姪が上の子が生まれた時に、「いつかやりたいことがある」と言っていたので、「うん、それなら諦めんでもええよ。子供に手がかかるのはそんなに長い時期と違うしな。まわりのみんなも助けてくれはるしな。そうしたらまたやりたいこともやったらええんのよ」…とアドバイスした記憶があります。
私の辞書には「たやすく夢を諦める」という項目はありませんのよ (^_^;)
長い目で見て欲しいと思う
生きている過程では、それまでに持っていた夢よりも「もっとこちらが自分に向いていた」ということもあるでしょうし、そういう時は方向転換した方が上手くいくと思うし…。
そういう場合の夢は、自分がどういう立場にいても、たとえ幼い子供を育てている最中でも、邪魔になるどころか支えになるものなのです。
「いつか実現させるんだ」とう意思があれば、一見つまらないような現実だって全部そのための糧になりますしね。「誰かのせいで夢を諦めた」とか「そもそも誰かのせいにする」発想なんて生まれてこないはずです。
「あたしおかあさんだから」と反論していた人たちはそういう強さを感じさせてくれてすごくいいなあ、と思いました。
家族のために使う時間はいろいろある
誰かのせいで諦めるのなんのと言ったら、介護の方が育児よりもきついと思います。
下手すると仕事も辞めないといけないかもしれませんし。どう頑張ってもラストは永遠の別れでしかないのが介護です。でもこれも受け止め方で全然違ってきます。
少なくとも私は両親の介護のせいで自分が犠牲になったとも考えたことはないし、相変わらずめげない夢を追いかけているし、相手が病気であっても夢はなくならず、したがって「病気のせいでなくしたもの、犠牲にしたもの」というのもないんですよね。
我が子のせいで、自分を犠牲にした、と考えてしまう人は、やがて介護のせいでまた自分を犠牲にして、大病でもしようものなら「病気のせいで」と言いそうだなあ、とほとんどコメディのようで笑えてきました。
不幸ごっこはもうやめよう。いつだって自分の人生は自分が主役だから、消えない夢を大切にして、その時にしか体験出来ないことを充分に味わっておくほうがいいと思います。
その時に自分の血肉になったものは生涯の力にもなるでしょうし、その人ならではの深い魅力にもなると思います。