介護と生命の介護者たち
この記事、以前にも見かけた記憶があるんですが、またたまたま目に付いたので再度取り上げますね。
親子の関係は本当に人さまざまで、とても一概に語れるものではありません。
でも健康な息子による介護がわずかひと月半で「悲しい努力」だと結論づけられてしまうのが、むしろ哀しいことですね。
まあ、人の生命の終わりは「死」しかないわけですが、そこにたどり着くまでにいかに生きるかの凝縮された形が介護なのかもしれません。
我が家の場合は本当に両親が私に対して、絶対的な信頼と自己肯定感をくれたおかげで、介護という行為にも充実した日々を感じて暮らすことが出来ました。もちろん「早く死んで欲しい」と思ったこともなければ(ただし、ひとりでの母の在宅介護で「もう一緒に死のうか?」とは思ったことはあります)オムツ交換しようがなにしようが、尊敬の念と可愛らしさは私の中で無理なく存在していました。
ただし、介護者が二人以上の場合とひとりしかいない場合とでは雲泥の差はありました。24時間、365日、変わってくれる人がいない、という厳しい現実はブラック企業以上かもしれません。その疲労が極地に達すると、思いつめての心中や親の殺害を考えてしまうこともあるんだなあ、と、その実感はありました。
そういうときに、たとえわずかでも飛び込めるシェルターみたいなものが欲しいと思いました。たとえ数日でも心身を休めて、可能ならカウンセリングを受けられて、そうして現場復帰できるといいなあ、と介護の現場にいる人たちのSNSでもそういう意見はたくさんありました。なかなか実現は難しいのかな?
はてなのユーザーさんはまだ平均年齢が若そうなので(FC2の方がちょっと上かと思いますが)、介護のテーマは全然ぴんとこないと思います。でもこれは確実に向かい合う時が来るテーマですし、ずーっと生まれた時からの親子の関係が集大成でやってくることでもあります。まぎれもなく、人の一生はあらゆる世代の体験が連続して繋がっているということを忘れてはいけないと思います。
育ちゆく子と育てる親と身守る視線と
こちらはもっと若い世代のテーマ。こちらを身近に感じる人の方が多いかもしれません。
私が子供のころはまだ市電の中で授乳させていたお母さんが普通でした。昭和30年代くらいかな。自分も子供だったので、赤ちゃんがないていたかどうかは覚えていませんが、お母さんが市電の中で飲ませていても、誰も特別視していませんでした。他の乗客も微笑ましく見守っていたし。赤ちゃんが幸せそうだと大人もうれしい感じだった。当たり前の光景、って感じでした。
ああいう包容力みたいなものはどこに行ったんだろうね?
そこここに銭湯がある時代でもあったし、あらゆる年代の人が一つの場所に普通に生活していたイメージ。銭湯には近くの病院の整形外科に入院されている患者さんも来られてたし。赤ちゃんも結構いた。まだ一般家庭のお風呂がそんなに普及していなかった最後の時代みたいだし…。
我が家は当時、薪で沸かすお風呂しかなくて、銭湯は開店と同時に通ってた。だからよく赤ちゃんもいたなあ…。
赤ちゃんもお湯に入ると解放感で気持ちよくなって、ついでにウンチしちゃったりするんですよね。さすがにお母さんは恐縮されていましたが、お風呂やさんは怒りもせずに掃除されていた印象がありました。まあ、あんまりはっきりした記憶ではありませんが。
私の子供のころってあんまり大人が怒っていた記憶がないんですよねー。ものがない時代でしたが、カリカリしてはいなかったかな?わりと貧乏が当たり前だったし。他人のものを羨むこともなくて、遊びに行った友達の家でも、うちに負けず劣らず豊かじゃないなあ、というのもあったし…。
(ものがなくてもべつにかまわないのはいまでもそうですが(^_^;))
すべてはひとつながり 全体の幸福のために
人生の始めと終わりと、確実に繋がっているものですが、どの時期においても、誰もがもっと生きやすくなるように世の中を変えていくためには老若男女あらゆる世代、あらゆる立場がひとつながりになって協力してやっていかないとダメだと思う。
私はたいして複雑なことはわかりませんが、死に向かう高齢者、生まれてきて育とうとしている赤ちゃん、育てるお母さん、そのどこにもたいした違いは見出せません。懸命に生きる「人間である」こと以外にたいした差異はないと思います。
みんなでもっと楽に生きられる世の中にしていきたいなあ、と切に願います。
私も自分が死ぬまでは「自慢の娘」でいたいのですよね。うちの両親も世間とはまったく違う見方と価値観を持っていたな、と今でも思います。で、今の私も「自慢」なんですよね。生きたいように生きてきた結果が「自慢の娘」だったら、もしかしたらすごく親孝行したってことかしら?(^_^;)
いくつになっても私を肯定してくれる親の存在はかけがえなくありがたいものです(^^)