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両親の介護も一段落 双極性2型障害と気長に共生中

新興宗教から脱退した人の体験談を読みました

 

なんとかおかずは作りました

 

あり合わせの材料でなんとかおかずを作ったら、ジャーマンポテト(もどき)と高野豆腐の卵とじくらいしかできなかった。青物野菜がまだ高いのが痛いです。

 

でもこのごろケータイで写真を撮らないものだから、食べ物の写真を撮らなくなりましたね。食べ物は暖かい方がいいし、わざわざカメラを出してくるのも面倒だし、それで食べ物写真が減ったと思われます。

 

日本人は(いや、むしろ世界的に傾向だと思う)スマホのカメラで食べ物と猫の写真ばかり撮ってる、というのは多分正しいでしょう(^_^;) 手軽さに対応する被写体っていうのが、なるほど、食べ物と猫だって理解出来ますし…(^_^;)

 

 


貴重な体験談かもしれない

 

togetter.com


昨日たまたま見つけた記事なんですけど、小学生の頃から親に連れられて、ある新興宗教に入って活動していたものの、徐々に疑問を感じて脱会するに至った人の記録なんですけど…。

 

なんだかいろいろな問題点が散見されます。

 

親がよくわからない幼い子供を連れていくうちに、なんとなくそこの教義に影響されていくのも自然な話ですが、それがなにしろ子供のことだから、あとあとまで影響が強く残るのが怖いですよね。

 

普通に新興宗教と縁がなく暮らしている一般の大人には、そのおかしさが一目瞭然なんですが、こういうところって一番わかりやすいのがこれですね。

 

「何事につけても(世界レベルから個人レベルまで)うまくいったら『教祖様のおかげ』で、うまくいかなかったら『あなたの信心が足りないせい』」ということになってるんですね。

 

なおかつなにかといえばやたらとお金を要求される。

 

信者が集まらないとお金が入ってこないし、教団の経営がうまくいかなくなるので、信者獲得にも熱心になる、という感じかと思います。

 

 


…最近では新興宗教とかじゃなくてもそういう傾向はあると思います。宗教が持つ、怖さだなあ、とこのごろつくづく思います。

 

信仰することで選民意識を持ってしまったら逆効果だと思いますが、そうなりやすい精神的な構造になってるのね。やっぱり怖いと思いました。

 

 

 

ちなみに私は無宗教ですが、無神論ではないと思います。自分独自の考え方や感じ方は持っているけど、それはあくまでも個人的な生きる支えにすればいいのであって、他人に布教したりするものではないと思っています。

 

まあ、日本の憲法はありがたいことに「信教の自由」が存在しますが、信じるのが自由なら「棄教の自由もある」ことですね。

 


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知恵蔵2015の解説

 

信教の自由

日本国憲法20条には「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」とある。信教の自由は具体的には、(1)内心における信仰の自由、(2)宗教活動の自由、(3)宗教結社の自由の3つを意味する。つまり、たとえ反社会的な内容であっても、個々人の心の中で信仰し、行動として表さない限りにおいては何ら制約を受けない。そして、布教活動を始めとする宗教活動や宗教団体を結成することに対しても自由が与えられている。ただし、宗教活動が反社会的であったり犯罪行為を伴う場合は、その自由も制約を受けざるを得ないことはいうまでもない。また、宗教団体の信教の自由と個人のそれとを同等に論じることはできない。個人の自由を基本とする現行の憲法下では、宗教団体を構成する個人の信教の自由がまず優先されると考えられる。

 

(岩井洋 関西国際大学教授 / 2007年)

 

kotobank.jp

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やめたい、と願ってやめられないというのは全然自由ではありませんから、こういう個人の選択の自由は最後までまず尊重して守られないと大変なことになるのではないかと思います(ーー;)

 

信じる自由も信じない自由も基本的な人権じゃないかと思います。

 

 

昨日3本も記事を書いたから、今日はこれだけで…。午後からは看護師さんです。

 

 

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