お互いさま おかげさま ありがとう

両親の介護も一段落 双極性2型障害と気長に共生中

「お迎え」されて人は逝く

昨日、結構な時間出ていたおかげで、今日はかなり疲労が強いです。

弟が昨日受診しただけでこたえる、なんて言ってますが、私の場合はそういうのが常だから (ーー;) ちょっとずつ慣れていかないと仕方がないよなあ、と思うのですが…。弟にも慣れて欲しいです。引きこもりが長いと余計に堪えるだろうし (ーー;)

 

 

 

特養の人と相談するつもりですが、母が摂取する塩分のこと、普通の低塩分のメニューだとまた足りなくなるのではないかと不安が残ります。梅干しとか、お醤油系統の佃煮とか、そういうものを食事に足さないと母の場合はナトリウムが足りなくなるのかもしれません。

 

私がエンシュアゼリーに足していたのがどれくらいかなあ…?適当ではありますが、もともとエンシュアが甘いので、おしるこにお塩入れるようなものか??2〜3グラムくらい??5グラムはないと思う。(いい加減だなあ)

 

でもそのわずかな量が影響しているうちは、入所してもしばらく食欲として残っていたくらいなので…。たぶん、やっぱりそのわずかな塩分が必要な気がします。それをどうやって補うか?低塩分だとたぶん足りないですね。

 

こういうことは私が考えないといけないだろうな、ずっと経過を知るものとして。どのみち来週には相談員さんに話してみますけど…。8月はカンファレンスの月ですし。

 


このごろこういう本をよく読んでいますが、私にとっては「生と死」は常にペアで存在するものだから、死について考えることはすなわち生について考えることにほかならないのです。病気も死もタブーではないのですね。

 

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緩和ケアで多くの終末期の患者さんと関わってこられたお医者さんの本ですね。私とかなり同世代の方です。

 

少し前まではタブー視されていたこういう視点がきちんと語られるようになるのは非常にいいことだと思っています。

 

およそ7割くらいの患者さんは死に近づくにつれて、亡き身内に出会う「お迎え」を体験されているらしい、と言うのは興味深いです。わずかに「まだ生きている人」に出会ったケースでも、その相手も瀕死の状態で、患者さんと前後して違う場所で亡くなられてたりするんですよね。まるで「いつ逝こうか?」と打ち合わせに来られたみたいに。

 

で、お迎えに来てもらったら、非常に安心するらしい。どうやら自分の逝く先はそういう誰かが待っていてくれる、と思うと、なんともいえない安堵感が生まれるのはよくわかります。

 

 

 

私の父の場合、やはり死の直前ではなくて、数ヶ月前くらいに何度か「お迎えかな?」ということがありました。

 

父はあまり喋れなかったんですが、天井の一点を長い間じーっと見つめて「怖い…」とつぶやいたことがありました。父にはなにか、誰かが見えていたんでしょうね。その後、また同じように天井をじーっと見ている時があって、「…にいちゃん…」とつぶやきました。

 

父が「にいちゃん」というのは一人しかいません。二十歳前後でニューギニアで戦死した11歳年上の兄(私の伯父)です。戦後の数回の遺骨収集でも見つからず、お墓には臍の緒しか入っていない伯父さんですが、ちゃんとしかるべき時には迎えに来てくれるんだなあ、と二重の意味で私は感動していましたが。

 

死を怖がっていた父が取り乱さずに落ち着いて、安堵しながら旅立った意義は大きいと思っています。私自身が死ぬ時には誰が来てくれるのか、なかなか楽しみです (^_^) ←どうもこちらからは指名不可能らしいです。

 

 

 

キリスト教圏ですと、お迎えは天使とか、そういう存在になるんだろうけど、日本の場合は祖霊なんですよね。現代でこそ、仏教的な色彩が多少入っていますが、お盆の行事とともに、この感覚は神道よりももっと古いもののような気がします。縄文的なものからずーっと綿々と続いている気がするなあ。

 

いずれにしてもこの世とあの世の距離は意外と近いと感じます。それを認識すると、死に行く人だけではなくて、残される家族も癒される面が大きく、また安堵するというか、グリーフケアにもなっているんだなあ。

 

 

ちょうどお盆になりますし…。意外と近いこの世とあの世をまとめて愛おしく感じる私なのでした… (^_^)

 

 

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