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両親の介護も一段落 双極性2型障害と気長に共生中

「『世間』とは何か」

 昨夜から、やたらと顔がのぼせると思いきや、すっかり本降りの雨ですね。さて買い物はどうしよう??? しんどいのは相変わらずだから。自転車押して歩いて行かないと荷物が持てそうにないなあ… (ーー;)

今朝起きて見たら、オリンピック開催が決まってましたね。世の中の人はなにをどう感じて考えているのか全然理解出来ませんでした。ツイッターで自分がフォローしている人たちもおおむね醒めた声が多かったな。ものすごくはしゃいでいる人の気持はやっぱりまったくわかりません。よほどスポーツが好きな人なんだろうな、というくらいしか… (ーー;)

私は物欲が減少したのと同時に、あらゆる勝負事になんの魅力も感じなくなってしまったので、スポーツは全部関心がなくなってしまったんですよね。まあ、もともと関心は低かったですが。

それでも前の東京五輪は覚えている世代です。生で見た聖火リレーくらいで、競技的なものはなにも記憶にありませんが。まあ、子供の頃から関心が極めて薄かったんだなあ… (ーー;)

なんか開催年までに原発事故の処理がもうちょっとなんとか目処がついていて、福島の復興が本格化していないことには、まったくお話にならないことだとは思います。

「『世間』とは何か」

これを読んで自分なりにいろいろ考えた。

海外には「世間」という概念は存在しないようです。「社会」と「個人」という感じなのかな。

逆に日本には「個人」というものが存在しないというのはまったくそのとおりだと思います。そしておおむね「世間」という範疇はかなり狭い世界のことを意味してますね。職場だったり学校だったり地域社会だったり。多少の違和感や不自由を感じても、我慢してその中に所属していれば、なんとなく大きな摩擦を感じなくてやっていける、という。

そして「世間」は「社会」にまでは成長していかないようです。どこまでも狭い範囲の感覚。

これがいい方向に働けば、たとえば大災害のあとでも秩序正しく行動し、暴動や犯罪もあまり起きない。(というのも実はそうじゃなかったということがありましたが)まあ、デモなんかでも大きく逸脱した違反行動にはなりにくいとか、あえていえばそれが長所かもしれませんが。

でも一度「私個人」というのを自覚して、どこまでも自分らしく行動したいと願う時、この「世間」というやつは非常に邪魔で厄介なものになります。世間イコール不自由。一旦はみだそうとすると、異分子は排除、という意識も強く働きますし、ものすごく排他的なものでもあると思い知らされます。

意図してその立場にならずとも、社会的な少数派、たとえば経済的貧困に立たされた時や、病気や障害でどうしようもなく「弱者である自分」を思い知らされる時、否応なしに「世間」の偏見などと孤独に立ち向かわざるを得ないことにもなります。

西欧の個人主義というのは全然別の意味があって、「他人をほっぽっておけ」とかそういうこととは違いますし、福祉の面で考慮されていたり、個人的なボランティア精神なども強く息づいているようです。

日本の場合はそうじゃなくて、その「世間」の括りからはみ出してしまった人にはひどく冷たいですよね。以前から生活保護費引き下げ云々を言ってますが、そんな福祉政策からして引き下げが真っ先なんだよね。

私には国が福島を切り捨てようとしているような意図が見えて仕様がないんですが、避難している人たちは避難先の「世間」にうまく入れなくて苦労していて、帰ろうとすればまた難しい問題が山積みで…。

日本に「世間」なんていうものが長い年月存在するのは、もしかしたら稲作文化と関係があるのかなあ?と考えてみたり。意識を解体させたり変化させたりするのは難しいでしょうが、どういう方向に向かうのが望ましいのだろうか?と考えてしまいます。

私自身、世間並みであることが難しい人間なので、いまは病気であることも加えて二重に孤独を感じています。

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