ここしばらく、3週間くらいでしょうか。わりと長い軽躁とおぼしき状態が続いていたんですが、体調がいまいちなのもあってか、今度はちょっと鬱の気配がかすめることがあって、いささかの不安を感じています。
まだこれから雑用のために動かないといけない時期が来るので、どうかなるべく鬱に落ち込まないで欲しいなあ、と願っているところです。
まあね、ここしばらく母とか伯父とかもいろいろ不調を訴えていましたし、そういう時期(季節的に)なのかもしれませんが。
伯父はしばらく前から五苓散を処方してもらっていまして、硬膜下出血に効くケースがあるから、という理由での処方だったらしく(おそらく先生は高齢を考えてあまり手術をしたくない、と思われたのでは?と推測しております)幸いにもその効果が見られたらしく、溜まっていた血液も徐々に少なくなっているようです。このまま順調に改善してくれるといいなあ、と思います。
五苓散は私も数年間ずっと飲んでいますが、私の場合は脚のむくみに処方してもらっています。あまりにも緩やかすぎるから効いているのかわからない。だからやめたらやっぱりひどくなるんだよね (ーー;)
これもむくみ自体が原因不明なので、なにがどう効くのかわからないのですが。
最近のスピリチュアル関係のサイトでよく見かける話。
「自分の想念が自分が住みたい世界を作り出す。だから世の中のなにものにも捕われることなく、流されることなく精神の安定を保てばいい」というような主旨のことが書かれていて、実は私はこういう思想には、ある種の理想があるかもしれないけれど、要するに「自分さえよければいい」という極端な思考に走る危険性があるのでは?と、ずっと違和感のようなものを感じてきました。
自分が穏やかな気持ちでいるためには、心を騒がせるあれこれに眼を向けなければいいのです。世の中の不幸に無関心でいれば、少なくとも自分だけの心の平穏は保てます。
特に私のようなタイプはかなり多くの人の気持ちにたやすく共鳴共感してしまうので、外界との接触がなければ楽だろうとは思います。
…でも、それでは自分が生きている実感も持てないんだよね。
けれども、この方法は私には決定的に無理だと思っています。
世界は入れ子のような構造になっていて、「私という個」のまわりに「家族」がいて、そのまわりに「親戚や友人」が存在し、さらに「職場、学校の人間関係」やら「ご近所」やら、「地域、地区」があり、「都道府県」「国」「東アジア文化圏」「アメリカやヨーロッパ、中東、アフリカなどの多くの国々」があって、究極には「地球全体」というものになります。
その地球全体が現在悲鳴をあげて軋んでいる状況なので、その声に聴こえないふりをするのはやはり無理です。
この入れ子の構造ゆえに、「私」という個人は「世界中のすべての人」が幸せにならないと、自分も幸せだと思えないタイプかもしれない、と思いました。
だって自分だけが幸せだって思っても、他に苦しんでいる人がいたら心が痛いからですね。
心置きなく幸せだって思えるようになるために、世界中の人たちが同様にそう思えるようにならないと駄目だと思います。ものすごくハードルの高い幸福ですが (^_^;)
私には自分の生命よりも大切だと思える人が複数名存在します。それに気付いたら普通にそう思うようになりました。
非常に高次の存在であるSomething Greatは我欲でしかない祈りには反応もしてくれないと思っています。
私はもとより神社仏閣で個人的な願い事をしたことがない人間なのですが(ご挨拶はしますけど)、そのかわりに家庭内のことは亡き父や祖父母に願うことがありますね。
きわめて個人的な願いは本当に「死ぬまで絵を描いていたい」のと「いまのように世界と関わりを持たせて欲しい」ことくらいだしなあ…。(死ぬまでパソコンが必要だってことかも (;゚∀゚))
でももっと大きなことは本気でSomething Greatに祈ります。
自分があまりにも無力で何も出来ない人間なので、他に出来ることがないというのが哀しいですけれども…。