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両親の介護も一段落 双極性2型障害と気長に共生中

鬱病にかかりやすい人のタイプ

お天気がいいので、勿体ない気持ちになって、マッサージの後に、ばたばたと100円ショップに買い物に行ってきました。

昨日先生に電話で相談して、別になにかが解決したわけではありませんが、不思議に少しだけ気持ちが楽になった気がします。ある意味、開き直ったとでもいいますか、どうしようもないんだなあ、という諦めの境地かもしれません (^_^;)

どうしようもないけど、このままで生きないと仕様がないんだよね、という感じですかね。世

の中には矛盾が一杯存在しているけど、だからといって、個人の力ではどうしようもないことが多いし、やっぱりどこかで開き直らないとどうしようもないんだなあ…。

ですので、リーマスもいままでと同じように飲んでいます。メンタル系にの薬は非常に慎重な取り扱いを要するので、自分の判断だけではやめづらいし、怖いんですよね。しばらくしたら、血中濃度の検査もされると思います。

 このあいだから、双極性障害関係の本を2.3冊読みましたが、結局治りづらい病気だという所くらいしかよくわからないような気がしたり… (ーー;)

うつ病と違って、脳の器質的な問題が関係しているらしいとか、遺伝的なことも関係しているような、とか、そういうことも印象に残りました。

で、私自身はどちらかというと、まだよく自分でもわからないんですよね。傍から見ていても明らかに変で、社会的な問題を起こしてしまうほどの明確な「躁状態」というのがありませんので…。

いずれにしても、メンタルな病気は一生ものだから、やっぱりつきあいも気長でないといけないんだなあ、と思うのと、出来れば生涯、こういう病気とは無縁の方がやっぱり幸せだよね、という気持ちは強いです。

以下は、昨日たまたま見つけた「うつになりやすい人のタイプ」についての文章ですが、いままでに見なかったユニークな視点もあるなあ、ということで、メモのかわりに引用させていただきます。

鬱病にかかりやすい人のタイプ

そんな人々の精神構造

http://page.freett.com/710mami/utu2.htm

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鬱病と無縁のようなひとがかかりやすい

 鬱病そのもの、と思われるような、内向的で、社交的ゼロな人はかかりにくく、自閉的な性格と鬱病は無関係に思える。実際には表面的な性格と隠れた本質的な正確との間には差異があるもので、表面の性格だけで判断していけないだろう。

 鬱病になる患者は例外なく頭の良い人。(専門家の税所弘さんいわくです)自分の状況を正確に理解し、先に起こる事態を予測することを簡単にやってのける。だから、鬱病にかかった人の大半は、これまで書いたような知識など先刻承知しているだろう。それどころか、もっと詳しいデータを持っていたり、専門知識を持っているかも。ただ、その人たちに共通して言えることは、頭が良い故に考えが先に進みすぎるということだ。

 仕事は自分が生きるためにし、学校へは自分を高めるためにいくもので、生活も自分が暮らしやすいように作っていくもの。すべては自分が中心になって自分のために行動しているに過ぎない。

それなのに、いつしか、自分を犠牲にして勉強、仕事をする、生活を支える、というように自分というものを犠牲にする方向に価値観が転化していってしまうのだ。

 

 確かに社会生活を営む上で、そのようなことは必要なときがある。そして、他人の為に自己犠牲を払える人間に対して、多くの人は、好い人だ、立派な人だと賞賛するかもしれない。しかし、それもすべては自分のために行っているという意識の元での行動なら問題あないが、自分があっての人生なのに、自分を犠牲にするほうに人生があると思うから問題になる。

  他人が迷惑に思うようなことは極力やらない、自分が気がめいっていても他人のために笑い明るく振舞う、自分が他人とのかかわりの中でいつも好い人でいたい、という思いがいつしか主客転倒し、自覚せずに自己を犠牲にしてしまう。

こうした、人情味豊かな、まじめないい人に好んで鬱病が発生する。現代社会(だけでなく、人間社会)とは、好い人だけでは生きられないという部分があり、その軋轢が鬱病を引き起こしているといえるだろう。

●合理的で先を読むことのできる思考能力を持つ

 普通多くの人は他人のために自分を犠牲にすることは出来ない。鬱病にかかりやすいといわれる典型的な人でも、いつも自己犠牲で暮らしているか、というと答えはノーだ。

[自分を良い人だと思いますか]という質問をすれば、鬱病の人の多くは違うと答えるだろう。前述のとおり鬱病になりやすい人とは自己分析力が旺盛な人だから、自分の嫌な部分を良く知っている。人を恨みもすれば嫌いもする、そういう心があることを知っているのだ。

 「ではどうするか」、となったときに、自分は我慢してでも他人の意向に沿うようにする。多くの人は、本当に嫌なら、自分を曲げてまで他人に追従しようとはしない。

しかし、鬱病にかかりやすい人は他人に迎合することの中に合理性を見ているのだ。もし、自分の気持ちを優先させることによって、相手が怒ったり、悲しんだりした場合におこる、後遺症的な感情に対して予期し、合理性思考を持って回避していると言える。

 鬱病にかかりやすい人は、かかりにくい人に比べて数倍先を見とおしている。(専門家がそういっているのであって、私がそう思っているわけではない)

 たとえば自分の担当以外の仕事を頼まれたとする。多くの人は嫌なら自分の担当ではないから、といって断るだろう。しかし、鬱病にかかりやすい人はこう考える。

《確かに余分な仕事だし、やりたくはない。しかし断ったら頼んだ人も困るだろうし、その人は他の人に頼むことになるだろう。となれば、頼んだ人も自分が断ったためにやらなければならなくなった人も気分が悪いだろう。その気分の悪い状況に、自分が気を使うことになるだろうから、それだったら嫌でも我慢してやろう、後が面倒くさくなくてすむ。》

  そこで、いいですよ、と、こともなげに引き受けることにする。確かにそのことによって頼んだ人も助かるし他の犠牲者もださずにすむから、先読みは間違っていない。ここでは自分の感情の経緯を表現することなく、結論に対しての行動だけを合理的に行うことで解決することが出来る。

  しかし、「嫌だと思った」ことは事実。それが行動に現れなかったというだけのことで、嫌だと思ったことは断っても断らなくても同じことなのだ。

だから、多くの鬱病になりやすい人は自分のことを絶対に良い人だとは思ってない。自分は合理的に解決したとしか思っていない。

 自己犠牲というのは、他人が鬱病になりやすいタイプの人を観察し、そういうのであって、自分は決して犠牲になっているという観念はないのである。

 しかしもっとも問題なのは、こうした物事の分析が習性になっているために、瞬間的に判断し、自分の感情の変遷にも気がついていない。瞬時に無意識のうちの結論的合理性行動をとってしまうこと。

だから周囲の人から見れば、良い人としかうつらない。嫌々やってるとはとても見えないからだ。

 そのため、鬱病の発見が遅れることになる。

自殺者の中には明らかに原因がはっきりしている場合もあるが、多くの場合は、その関係者が「あんなに明るい人が、信じられない」といい、家族までが「悩んでいる様子はなかったので原因は全く想像つかない」ということが多いのだ。

鬱病の引き金

 学生のうちは入学、卒業によって学校も変われば、新学期にはクラスも変わる。学生を卒業すれば就職もすれば、転勤もあるかもしれない。結婚すれば親から離れて独立することになるし、子供も生れて引っ越すことも有るだろう。こうした環境や状況の変化が鬱病を引き起こす引き金になることが非常に多い。

鬱病になりやすいタイプとは、環境への順応が悪く、普通なら1,2ヶ月で順応できるものが1年も2年もかかるというような人だ。

どうしてそんなに順応できないか考えると、鬱病にかかりやすい人は非常に人間関係を重要視することが多いために、変化した状況への順応ということより、変化した人間関係への順応のほうが重要なのである。慣れた環境の中で作り上げた環境の中で作り上げた人間関係を新しい環境の中で作り上げようとすれば時間がかかるのは当然。そしてそれがなかなか出来ないために、そのギャップがウツ状態を引き起こすのだ。

 身体的不調・親や家族の死・事故・転勤・転職・定年・結婚・出産・子供の結婚・引越し・離婚などの変化。身体的不調のなかに、女性の場合、生理・更年期障害・妊娠など、ホルモンにかかわる不調時に発生することが多くなる。

鬱病性格は親の教育方針によってきまる

 鬱病にかかりやすい人は、他人に対して非常に弱い人といえよう。ある意味、自己表現が全く下手ともいえる。ということになれば、もともと、社交性がない、協調性がない、といわれる人間のほうが十分な自己表現をしているということだ。

優等生・リーダー的存在・友人も多くユーモアのセンスもあり、クラスの人気者、とかがあぶないらしい。

昔の日本では、親に孝行するのは当然のことで、つらくても泣き言を言わずに心でないて顔で笑う、そういう心情は日本人全体の根本原理として、痛みを分け合い、理解することもできたらしい。(そんな時代私は知らないのでなんともいえないが)

しかし、価値観が多用になり、教育方針も多様化すると、今までの人の痛みを理解し、自分を抑えるといった日本人的価値観がまかり通る世の中ではなくなったのかもしれない。そうした現実をしっかり見据えて子供の教育にあたらないと駄目ですね。現代を雄雄しく生き残るために、良い子に育てると逆に社会でその子を苦しめることにもなりかねないということだ。

●家庭の問題 緊急避難所

 鬱病の発生原因に最もかかわっているのが家庭の問題である。鬱病にかかった独身者ばかりを調査すると、家族に救いを求めるタイプと、逆に家族から離れようとするタイプとに分かれる。そして、家族に救いを求めた場合には、自殺を企てる率は低くなるのだ。

 鬱病の場合、自殺を企てる人は30%近くにのぼるが、重症で、しかも、家族を含む人間関係が悪いと、さらに高いパーセンテージです。既婚者でも、帰宅拒否症候群の人が、本当に鬱病にかかると、蒸発するか、自殺するかしかなくなってしまう。

  家族が会っても、友人がいても、誰もが孤独であり、その孤独に耐えながら生きるものだが、それは健康な場合に言えることであって、鬱病にかかっている場合には、孤独は耐えられないものなのだ。

 自殺者が持つ共通の心理には、「助けられたい」という願望がある。死にたいという願望と同時に裏腹におこる心理だが、このとき周囲が気がつかないと助けられたい願望が死にたい願望に負けてしまう。

 助けられたい願望があるうちは、狂言自殺を企てたり、遺書めいたものを書いて人目につくところに置いたりするが、これらの警告に周囲が気がつかないと、心理的な防止ができなくなる。気がつくのが遅いと、あとは物理的に抑えつけたり、薬物に頼るしかなくなるのだ。

 鬱病に特有な自殺は発作的な自殺。未遂に終わった人に聞くと、どうしてそんなことを下のかわからない、という場合も多い。

 しかし、いずれにしても自殺は周囲の人の関心によって未然に防ぐことが可能である。それには、緊急避難できる場所を確保しておくことが大切になる。

 出来ることなら家族がその緊急避難の場でありたいが、様々な事情でそれが出来ないのなら、友人知人、或いは信頼できる医師や先生など、人間関係を密にし、自分から場をつくる努力が必要になる。

 ただし、これは健康なときにしかつくれないものだから、実際に鬱病にかかっている人にたいしては、周囲が避難場所を提供してあげるしかない。

こうした非常事態にあっては、誰でも良いから手を差し伸べてやることが危機を脱することにつながるのだ。

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「病を友として生きる」決意を必要とされる病気って、こういう脳みそ関係の病気が最も多いのかもしれませんよね〜。

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