今朝、取り上げたブログの続きです。
はっきりした診断はされていませんが、この部分は実はかなり「当てはまり感」が強かったんですね。
家族の中の自分の立場と言うのかな?「長女はいつまでも長女(ましてや独身だし)」という意識が強かったです。
弟が離婚して、母が乳がんになって、手術&入院して、父が寝たきりになって、よりその傾向が強まったというか…。
確かに生き甲斐でもあったけど、反面相当に頑張ってたなあ、という自覚もありました。
それで今でも母にはずっと頼られてますし…。いいんだけどね…。
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カウンセラーこういちろうの雑記帳
http://kasega.way-nifty.com/nikki/2009/09/-ii-1-2014.html
以下、引用です。
さて、いよいよやっと、双極「2型」の人固有の対人関係特性とその失調の話に入れる。
連載の今回は、その中の、今述べてきた「同調性」に関する側面のみを取り上げよう。
「双極II型性障害、とりわけ若い事例では、相手が何を考えているのか、大抵のことはわかるという。余裕のあるときには、先を見越して対応ができる。二手三手先まで読む。[ところが、]具合が悪くなると、今度はそれが裏目に出る。読みすぎ、気を使いすぎ、疲れてしまう。相手も自分と同じくらいに[こちらの気持ちを]読めるのではないかとと思い、合わせ鏡のような一人相撲になる。
また、皆がうまくいっているのか、どこかで諍(いさか)いが起きていないか、ということも、重要な関心事である。そして大抵、彼女らの勘はあたっている。おそしてみるまに、対人関係の相関図が、頭の中に描かれる。
こうした特性は、彼女らが生まれ育った家族での関係が反映されている。彼女らは、おしなべて甘えべたである。親に甘えるというよりは、むしろ親が彼女らに甘えてきた、と言った方が適切である。
この関係は、家の外でも再現される。彼女らの多くは頼られる。明白な場合もあれば、目立たぬ形を取る場合もあり、あるいはスケープゴートとして機能を果たしているときもある。(中略)
この頼られることは、彼女らの生きがいでもあるのだが、抑うつの時には大きな負担となる。(中略)
双極性II型障害の事例がきまって言うことは、「悩みを持ちかけられる」ということである。そして最も苦手なことが、「他人の悪口を聞かせれること」である。(中略)ある患者はこのことについて、「影で他人の悪口を言うことは、私の悪口もどこかで言っているということになります」と説明した。論理的に聞こえるが、むしろ相手に対する直感的な洞察なのだろう」(p.151)
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今回の最後に、では、こうした、双極性II型の人たちへの精神療法において何を大事にすべきかについて、特にこの「同調性」関連で内海氏が述べている部分から引用したい:
「どのような精神療法にも共通することであるが、患者が自分の問題に気づき、そしてそれに対応するためには、その問題を単に欠点として自覚するだけでは十分とはいえない。
・・・というより、それでは患者は浮かばれない。症状であれ、性格の特性であれ、それらは両義的であり、[=環境への不適応の要因になるともいえるが、同時に、その人なりにうまくやっていく上での『強み』でもあり]、かならず評価すべきところがある。
ましてや、双極性II型障害[の人]が持つ他者配慮は、肯定されてしかるべきでものである。
この利他的なあり方の中に、ただちに偽善、おせっかい、支配、自分本位などを読み込むべきではない。それは通常人が自らを投影しているものである。
同様に、他人の顔色をうかがう小心さ、過度の傷つきやすさ、拒絶への弱さなどになどの脆弱性に還元してすませるべきでもない。
仔細に日常のあり方、そしてそこにいたる生き方を見てみれば、彼ら彼女らの「けなげさ」「かいがいしさ」を感じ取ることができるはずである。
他人への配慮や気遣いをしつつ、彼らが奮闘してきたこと、
彼らによって支えられた人たちがいること、
そして 誰もそれを評価しておらず、
にもかかわらず、患者に依存し、患者の気遣いを湯水のように消費してきたこと、
そうしたことにに共感が示されるべきである。
少なくとも、他者への尽力に役に立ったのであり、意味があったのだということを、治療者は繰り返し与えて返してしかるべきである。
このあたりのへの共感性が持てないと、この疾病に対する治療は、ちょっと難しいかもしれない」(p.161)
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どこかで誰かに理解されて、その上で「お疲れさま」と言って欲しいのかなあ、とも思ったり…。
人間って欲張りだよね。