今日は昨日よりはいくらか暑さがましな気がします。
でも、伯父はいまごろの方がかえってバテテいて、今朝も母の手製のお総菜を届けてきました。やっぱり気が抜けたのとか、貧血とかもあるだろうな。明日はスポーツドリンクも差し入れしなくては…。
…しかしながら、おかずを作るために4時に起床が日課になってしまっている母も困ったものですが… (ーー;) せめて5時くらいまで寝ててくれないかなあ、と思うんですが、昼寝もしてるからそうはいかないか… (*-д-)-з
で、私は続きにコンビニだけには行ってきました。が、机に座っているのに立ちくらみのような気が遠くなる瞬間があったりして(別に貧血はしていません)、さらに高齢者にはきついだろうな、と身にしみております (ーー;)
素材の制作もあまり進みませんし、お絵描きにもいまいち集中力がないので、私もどうしてもぼーっとしている時間があって、勿体ないなあ、と反省しております。
自分に対して、無理やりにでも課題を作った方がいいのかもしれない、と思うんですが…。難しいですね。
twitterの方で見かけた話題。
http://pegasus1.blog.so-net.ne.jp/2011-06-24-1
こういうことをしてまで、原発稼働だの推進だの言ってる知事ってどうなの?と思います。かなり頭がおかしい人ですね。
自分たちの意思でなくてバリケードを作ってるんだとしたら職員の人もお気の毒ですが…。やっぱりこういう人を選挙で選んでしまうのが良くないんだよね〜。
これもtwitterで読んだんですが、日本という国の原発問題は「経済第一」の人間と「自然と生命第一」の人間との大きな価値観の差においての対決みたいになっている、ということで、なんだか納得してしまいました (ーー;)
ここしばらく読んでいた本です。
震災の被災地で地味に話題になっているそうです。読んでみてなるほどなあ、と思いましたが。
報道では何万人の中の1人にしか過ぎない「個人の死」ですが、その人がどういうふうに生きたのか、覚えていたいと願う青年は全国を悼みながら旅を続けています。彼に関わった人たちの変化と、家族たちのことと…。
不思議な作品だなあ、と思えるんですが、私はなぜかマザーテレサや鈴木秀子さんのことを思い出しつつ読んでしまいました。
マザーテレサや鈴木秀子さんはこれから天界に赴く人たちのそばに寄りそう立場の人です。「悼む人」の主人公は死者を悼みつつ、むしろ残された生者の立場にいるんじゃないのかなあ…?と私はなんとなく思いました。
「今現在、生きていること」がしごく当たり前だと感じている人は、より死を恐れるのかもしれないなあ、と感じています。それだけにこの世とあの世に非常な距離感があるようですね。だからこういう作品は衝撃的に思えるのかもしれません。
私個人は「あの世」と「この世」にさほど距離感を持っていない人間なんで、そんなに特殊な印象ではありませんでした。ただ、自分の死を選択するかわりに、他者を悼むという行為が主人公の支えになっているのかも…とも思いますが。
鈴木秀子さんのようなお仕事をしてみたい、と思うことはよくあります。死に行く人の最期の時に寄り添いたい、と願うことも多いです。
が、実際にそういうことが出来るかというと、私は共感度が強すぎてきついかもしれないなあ、とも思いますし…。まだまだ寄り添うためには修業が必要なようですね (^_^;)
もしもまた転生の機会があって、その時に健康な身体を持っていたら、そういう仕事に携わるのもいいなあ、と思っております。
現生ではお絵描きだけしか不可能な感じなのがちょっと残念です…。