先週、自転車ごと転んでケガした左膝ですが、擦り傷自体は本当にたいしたことなくて、ほとんど治りました。が、打撲は相当ひどかったようで、内出血の紫色が膝の下から、膝の横から後ろまで広がっております (ーー;)
で、いまだにかなり痛くて、膝をつくのが辛いですね。このあたり、自分も歳だなあ、と実感させられます (ーー;)
昨日、壊れたPhotoshopのファイルはなんとか半日かけて消える前の段階まで描き直しました。そこで気力が尽きました (ーー;)
夜寝る前に新しいケータイの手続きと設定をしたので、そのせいもあってかいまだに頭が痛いです。ちなみに番号もメルアドも変化はありませんので、ご安心くださいませ (^_^;)
母に貸す時のために「かんたんケータイ」にしたから、予想外に設定も楽でした。説明書の大きい文字がいかにも老眼向きだと笑えたけどね。でも取説そのものはまださほど大きな文字ではありません。
一応カメラもついてるけど、これで撮影したとして、パソコンに送れるかどうかはまだ不明です。取説を読む気力が失せました (ーー;)
今日も暑くなりそうですが、朝一番で郵便局とコンビニに出かけて、用事を済ませたら、あとはまたお絵描きの続きをやりたいなあ、と思っております。
昨日、何気にリツイートした下の文章、これって、パニックのみならず、日本人の特性がマイナスに現れる時のひとつの典型みたいに思えました。
huromu/日本人のパニックは異質性の排除に向かうとの予測がある。「放射能は安全」と集団で思い込み、そのデマにすがって変わらぬ日常を過ごそうとしている。なんか怖いけれど、私だけは大丈夫だろう。といった具合。
こういう姿勢は日常の中にもたくさん潜んでいて、時としてはいじめなどの要因に大きく働くようにも思えます。
避難所でひとぼっちだった子供のように。「和」を守りつつ、表面的に和やかに過ごすには、結局「見たくないもの」「認めたくないもの」「異質なもの」を見ない振りして排除する方が楽だからなあ。そういうものを見つめるためには時として自分の内なる闇の部分とかマイナスの部分とかまでを見つめる勇気が必要だからです。
多分、そういうものは気付かないふりして、にこやかにまわりに合わせるほうが心穏やかな日々が過ごせるのだと思います。
しかしながら、私は昔からこういうところが好きではなかったんですよね。その他大勢に合わせることがそもそも嫌いだったし、仲間はずれを作り出すよりも、むしろ一人でいたほうが気楽だったんです。そのかわりに孤独とは常に隣り合わせの覚悟も必要でしたが。
基本的に自我も強いので、理不尽ないじめに遭うことはありませんでした。それでもいつも自分は「少数派」だという意識は持っていたので、逆にその少数派に属する人々のことを大切にしたいし、理解したいと強く願っていました。
かなり過敏なくせにそういうことをやめなかったから精神的に疲れたのかもしれませんが、でもそういう自分は嫌いじゃないです。
一部のスピリチュアルな思考のように、マイナス面を見ようとせずにプラス思考のみに焦点を置こうというのもひどく不自然だと思いますし。闇のない場所には光もないのかもしれません。
自分だけが違う次元にアセンションするとか、そういうことはどうでもいいと考えています。より多くの人たちが少しでも幸せだと感じられる方向に行けるように、それを見守ることの方が自分には大切だと思うので。泣くのも怒るのも自然な感情だと思っています。共感できなくなる人間になるよりは、過敏なくらいの方がずっといい。
そういうふうに考えると、日本人のパニックほど厄介なものはないかもしれないなあ、と改めて感じております。マイナス面をしっかりと理解しつつ、それでもそこから立ち上がる勇気を持つ人たちが増えて欲しいと願っております。