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両親の介護も一段落 双極性2型障害と気長に共生中

昭和30年代の夏

丹 今朝はなんと午前3時半に起こされてしまいました(汗)お酒を買いに行った弟(夜中に行くなよ練)と母とが同じ部屋で話していたので、その声で眼が覚めて。そのまましばらく母の話相手にされていて、寝たのか寝ないのかわからないいままに5時過ぎに起床。玲 まあ、朝が早ければその間に片付けられることも結構あるんですが。

9時前に病院に行って、だから帰宅も早かったですし、買い物にも行けました。まあ、このあとの午後はフリーです。やれやれ。玲

で、父は来週20日に胃瘻に再挑戦となりました。ゆえに当初この日の予定をしていた話し合いも延び延びに。20日はまあ、一日ついていないといけないかなあ、と思いますが。前回、寝ている間にすんだから、今度は怖がらないで飲んでくれるかな、胃カメラ。あとであまり痛がらないといいなあ、というか、それ以前に無事に手術が成功すればいいなあ、と願うばかりです。嶺

順調に回復しても退院はやっぱり7月でしょうか。楽なような…ちょっと微妙なような(笑)それ相応の家の中の準備についてはまたケアマネさんと相談もしなければ、と思っています。

Web拍手ありがとうございます。

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 さっきテレビでちらっと見たのですが、今は「昭和」がブームなんですね。ブームと言うよりも「昭和文化」なんだと言われていましたが…。要するに現在の社会の中心的な年代層が育った時代だから、懐かしさも含めて支持されるのかなあ?とも思ったり…。

とりわけ昭和30年代というのはリアルな記憶のある世代にはやっぱり懐かしいですよね。確かにモノはない時代でしたが。それはもう社会全体がそうなんだし、それで普通だと思っていたからなあ。不便だとも感じませんでした。ごく幼い頃ですが。

服などもほとんどが古着を縫い直した母の手作りでした。

その頃は京都御苑の近くに住んでいて、府庁も税務署も近かったし、官庁街だったんですね。で、当然、私が生まれた時にはまだうちにはテレビもありませんでした。夜になると家の前に床机を出して、蚊取り線香をつけて大人は囲碁や将棋をやって夕涼みをしていました。うちの両親はよく上御霊神社の夜店に連れて行ってくれたそうです。(いや、私に記憶はないのですが)

洗濯機なども父が手作りして、ローラー式の脱水をしていたとか。あの家はトイレもお風呂も別棟にあって、雨の日は傘が必要でした。お風呂はガスじゃなくて薪で沸かしていたし。毎日は沸せないから、よく銭湯に行っていましたっけ。

電気冷蔵庫が来る前は「氷で冷やす冷蔵庫」なるものがあって、この冷蔵庫は祖父の手作り、氷屋さんが毎日大きな氷を運んで来ます。父は市電で通勤していました。母と二人で迎えに行くと、お給料日には本を買ってくれました。

もちろんエアコンもなく、私はあせもだらけになって、たらいで行水していたそうです。地蔵盆には町内の家の一室にお地蔵さんをお祭りして、当時はマジシャンとか紙芝居とか、そういうパフォーマ-の人たちが夜に回って来てくれていましたね。

子供用の折り紙も水に濡れると色落ちする染料で、だからその色を楽しむのにわざと色水を作ったりして遊んでいました。部屋の中には蚊帳も吊ってありましたし。

まだ弟が生まれる前の夏の記憶です。

モノはなくてもそれは楽しかったですね。鍊子供だった気楽さもありますが、あの当時は世界の時間がゆったり流れていた気がします。戦後の傷もほとんど癒えてきて、未来に夢を持てた時代ですね。「頑張って働けば報われる」という図式がちゃんと成立する時代だったのかもしれません。

「未来に夢が持てる」というのは幸せなことかもしれません。おそらくあの頃は現在のように将来の不安を抱える人も少なかったかもしれません。でもそのあとで日本は高度成長の時代に突入していくのですね。モノが増えても幸せとは限らない時代になります。

人間って不思議です。なければないで、それなりに幸せで、でも欲しくなるとそれが手に入らないと不幸な気持ちになってしまう。「モノ」とか「物質」とかいうのは本当はかなり幻想に近いものかもしれないなあ、とふと考えてしまいました。蓮

 「三丁目の夕陽」DVDが出ましたね。レンタルするか、購入するか、出来れば一度見てみたいと考えております。映画館には行けなかったしね(汗)蓮

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