ぼちぼちですね
今日はクリニックの受診&血液検査で、帰りに役所に寄って来る予定なので、これも予約投稿です。
週末に出来たことというと、auの名義変更のための書類送付をお願いしたくらいです。まだあとガスと水道がありますが、それは今日明日に。J:COM関係で電気やネットとIP電話は私の名義で契約しておいてよかったです (^_^;)
死の姿が理解されない時代
死にまつわる話題ばかりですみません。
でもこういうことは元気なうちに考えておいた方がいざというときに心の準備が出来ているものですし…。
災害も結構遭遇しますけど、人間はほぼ100%近い確率で家族や身近な人たちの死に遭遇することが普通ですから…。
昨日、こういうつぶやきが流れて来ていました。実はしばらく前にも似たようなつぶやきを見た覚えがあります。
90代の親が肺炎になっていて、もう最期が近いのに、なんとしてでも延命してくれ、と頼む60代、70代の子供たち…。
日本人は満足した臨終を迎えられていないと思う。
— しずる/まりおら (@shizurumariola) June 2, 2018
「ご飯を食べれば元気になる」「血圧が下がったら昇圧剤を使ってください」等、本人は老衰してポックリ逝きたくても家族が逝かせてくれない現実。
これは家族が介護をやりきってないせいだと思う。 →続きます
続①→施設に預けっぱなしだったり現実が見えていなかったりで、生き物は死に向かうとどうなるか理解できていない。手を掛けても止められないのが老化であり、介護をやり尽くした人なら死に向かう様子がわかるはず。死ぬってどうしようもない事で、いずれみんなそうなるんだよ。 →続②へ
— しずる/まりおら (@shizurumariola) June 2, 2018
続②→「まだ生きててほしい」なんて、老いるということを理解していないから出るんじゃないかな。手を打ち尽くして、もうどうしようもないんだ、これが老衰なんだと家族が理解しなくてはしあわせな臨終なんて迎えられないと思う。
— しずる/まりおら (@shizurumariola) June 2, 2018
夜勤で5時間心臓マッサージしたけどあれは誰も幸せにならなかった(終
先月28日に母が亡くなりました。入院して3日目の死でした。酷だから心臓マッサージや人工呼吸器はやめてください、とお願いしていたので、眠ったまま静かに心臓が止まったらしくとても安らかな死でした、我々は臨終に間に合わなかったけど、悔いはありません。幸せでした。母も私も。
— 藤本恭子/双極性2型障害と共生中 (@haruusagi_kyo) June 2, 2018
死に向かう体に心臓マッサージが酷だと理解され、家族が納得して最期の時を迎えられるのが1番です。しかし医療が発達した現代ではそうならないご家庭もたくさんあるのです。
— しずる/まりおら (@shizurumariola) June 3, 2018
そういうケースもたくさんお聞きしています。家族も改めて「死」について考えることが重要ですね。きっかけの一つとしてエンディングノートなども意義があるのかもしれません。でもずっと様子を見ていたら、「その時」は自ずと見えて来ますが、これも日常で死に接する機会が少ない現状なのでしょうね。
— 藤本恭子/双極性2型障害と共生中 (@haruusagi_kyo) June 3, 2018
死に接する機会が少ないこと、とてもそうだと思います。
— しずる/まりおら (@shizurumariola) June 3, 2018
核家族化や共働き家族がほとんどで、人が老いて死ぬことに直面出来ない近代化の弊害ですね。
私の父は自宅で亡くなりましたが、ナースのケアマネさんが「肺に水が溜まると溺れているのと同様なので、苦しいです」とか「尿が出なくなったらだいたい何時間後くらいです」とか経験上の最期を教えてくださったので、「あとどれくらい」という予想が出来ました。
父の場合は一度あちらに行きかけて、脈拍も30くらいに落ちたのに、私がほっぺたくっつけていたせいでか、一度戻ってきてしまいました。それから24時間ずっと目を開けていました。今度目を閉じたらおしまいだと自分でもわかっていたようです。それでも目を閉じる時間は来ましたが、「パパ、頭はクリア?」と聞いて「うん」と言った会話は忘れられません。
子供のころから…
私は結構家族の臨終に立ち合っているんですよね。
祖父は自宅で(いま私が寝起きしている部屋で)亡くなりましたし、祖母も病院でしたが、駆けつけて臨終に間に合いましたし。
以前の話ですが、遠い親戚のおばさんが、人工呼吸器で2年以上永らえて、家族の方がすっかり疲弊してしまったという話を聞いています。意識が戻らないままでしたし、酷な最期だったのかもしれません。
母は間に合っていませんが、もうあれだけ穏やかな最期ならなにも文句はありません。
両親ともに胃ろうのお世話になりましたが、それでもちゃんと平穏死というか、かなり自然に近い感じの死を迎えられたと思っています。
ずっと見ていたら本当にわかるんですよね。残り時間と自然の変化が…。父の最期に似ていた母の変化も…。たまたま、なんの占いかわかりませんが、(やっぱり算命学か四柱推命のような気がしますが)私も弟にも変化というか、別れの暗示が出ていたので、もしかすると、と思ったら、こういうことって皮肉にもはずれないんだなあ…。
ずっとそばにいるとなんとなくわかってくるんですよね。そういうことが出来なくなって、かえって患者さんに苦痛を与えるはめになっている、とこのツイートの方がおっしゃっていますが。
子供のころから身近な人や家族の「死」を見せるのは大事だと思います。
姪が4歳の長男にひいばあちゃんの死に顔を見せていましたが、ああいうことね。
姪も子供のころはあの世と近い距離にいたなあ…。いろいろ見えるタイプでしたが、それはまた別の機会に… (^_^;)
意思確認しておかないと家族はすごく困る
大層なエンディングノートは必要ないと思うんですが、終末期になったらどうして欲しい、という意思を伝えておくのは本当に大事だと思いました。私も心臓マッサージも呼吸器も不要です。…と、ここに書いておいて有効かどうかわかりませんが… (^_^;)
結局、後悔しない生き方の先に「悔いのない最期と穏やかな死」が続いているのだということはよくわかります。
穏やかな最期を迎えるためにみなさま、悔いのない生涯を送られますように… (^_^;) (宗教じゃないですよ)
なんだか知らんが母が生前に一杯徳を積んでおいてくれたおかげで、みなさまのご好意が身にしみるこのごろです。警察官の方や納棺師さんまで優しい。親族やご近所はもちろんのこと。亡くなって母の偉大さが身にしみます。母よありがとう (^_^) #介護
— 藤本恭子/双極性2型障害と共生中 (@haruusagi_kyo) June 2, 2018
これらがまわりまわって甥や姪やその子供たちにも届くように、この先の私の人生頑張ります (^_^;) #介護
— 藤本恭子/双極性2型障害と共生中 (@haruusagi_kyo) June 2, 2018
『天に徳を積む」と言いますが、この「天」ってどこのなんだと思いますか?私もこれは漠然としていてうまく説明出来ません。でも「天」というのはあるんだよね〜。確実に。
— 藤本恭子/双極性2型障害と共生中 (@haruusagi_kyo) June 2, 2018
この「天」についてはやっぱりよくわかりません。きっと解釈も多々あるのでしょうね。