DTPの仕事も面白い
自治体の仕事のチラシですが、第一案の原稿はおおまかに出来ました。10日くらいまでに途中経過の提出をしてもらえばいい、とのことなので、もう一度見直してみます。
デザインの仕事はお客さんの話をお聞きしているうちに、おのずとイメージが浮かんできたら、それを目に見えるものにしていく作業で、本当はぼんやりしたものがお客さんの頭の中にもあるのだと思います。その曖昧なイメージをキャッチして形にしていく作業が実は結構面白い、と思っています。
私の中にはほぼ映像で存在して、言語化するのは難儀だなあ、というイメージが山のように漂っているので、それを目に見えるようにしていく楽しさがデザインの中にはあると思っています。そういう説明しか出来ないんですが、お絵描きとデザインは映像的な分野のものだと思っているので…。
共感覚がある人ならもっと面白いだろうな、と思いますが、私の場合は音楽を聴いて映像が浮かぶくらいだから、とても共感覚だとは言えません。でも直感はほぼ外れないんだよね。不思議な気もしますが…。
どうしようもなくユニークな私 (^_^;)
なんとなく昨日の記事の続きですが、昨日の記事にゆきにーさんから「「突き抜けちゃってる」と表現していいものですよ。」というコメントをいただいたので、あ、それはそうかもなあ、と自分でも思った次第です (^_^;)
いやー、これは実はかなり昔から自覚はありまして、特にアドラー心理学が注目されるようになってから、私もよくわかるようになりました。おそらく私の価値観とか人生観とか、そういうものはいま現在の若い世代の人よりも多分未来に行ってるなあ、と…。いずれ世界中がこういうふうに思える世の中になるといいなあ、と切に願う次第ですが…。
ただ、そういうぶっとんだ価値観の中でも、私の中では変わらないものがあって、それが情的なものなんですよね。これだけはもしかしたら現代よりも昔に豊かだったものかもしれません。人情というか。それはどんなにAIが進化してもカバーしきれないもののような気がします。
で、私の中にはその新しいものと昔ながらのものが矛盾なく同居していて、それが私の中心を作っているような気がします。
…ということで、ふと気がつきました。これってINFJの性格そのままじゃないかなあ、と。
気がついたら、一度削除されていたページが戻っていたので、再リンク致します (^_^;)
ここの解説、目茶苦茶よくわかります。若い頃ならいろいろ迷いもあったでしょうが、いまはそれもありません。この年齢になると、本当になにもかもが統一されてくるなあ、と思います。
ここに書かれている職業、なんでも出来そうな気がしますが、教師に関しては自分が生徒だった時代に、厳しい視点で見ていたらしく、尊敬出来る教師に出会えなかった不幸はあって、とても目指す気にはなれませんでしたが…。
ひとりになれる時間がないと多分気が狂うか病気になって死にますね。政治家は無理だな。あの職業はあんまりものを感じない人じゃないと出来ないと思う。(ごめん、褒めてません)
これも才能〔ギフト)なのだそうです
今朝、さらにゆきにーさんからレスポンスをいただいたので、そちらもリンクさせていただきますね。
これははるうさぎさんがある種の境地に立っているから言えちゃう事なんですよ。好きなことを迷うことなく一心不乱に実行できるってのは才能なんです。それはギフトです。羨ましいなと思いますよ。僕は趣味をやるにしてもいちいちメタ的な視点で「これはやったところで人生のなんの役に立つんだろう?」悩んでしまうから中途半端な事しか出来ない。まぁ限られたモチベーションをなんとかやりくりしようと思います。
…そうか、これってギフトなんだ。あまりに自然に私の中に子供の時からあるから、特別だとは考えたことなかったです。でも確かに、これが自分の核になっているから、軸もブレないし、迷いがない選択も出来るし、やってみて駄目なら、いさぎよく手放すことも出来ますね。なんでも主体的に決められるし。
まわりからどう見られようが思われようがどうでもいいので、あとは適当ですが… (^_^;) もっと技術的な才能があったら、職業にしているかもしれませんが、描きたいものを描きたいように描けなくなるなら仕事であることはむしろ邪魔なんですよね。それくらい私の本質だし、幸福感とも現実を生きる力とも関係が深いと思います。
自分と他人を比較しない、まわりの評判を気にしない、まさしく「嫌われる勇気」が必要ですが…。
でもこれから先、こういうことを主体にして人生を選択し、切り開いていく人は増えるかもしれませんね。
物質的なものじゃないんですよね。多くの人がそれで魂の満足度を高めていけるといいなあ、と願っています。自分が幸せな人が増えれば、世の中がもっと優しくなるのでは…?と淡い期待を寄せつつ、ですが…。