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両親の介護も一段落 双極性2型障害と気長に共生中

双極性2型障害者ですが、両親を介護しているうちに気付いたら、30年以上悩んでいたパニック発作を克服してました・その1

 

もしかしたら、誰かの役に立つかもしれませんので、書いてみようかなあ、と思いました。歳月の記録はわりと正確だと思います。

 

まあ、ぼちぼちとおつきあいいただければ幸いです(^^) 

長いけどすみません。2回に分けようかな。

 

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私が介護していた(している)両親のこと

 

ちなみに父は2006年1月~2009年10月まで、在宅で介護 脳梗塞から左半身不随 嚥下障害のため胃ろう使用。
要介護5 重度身体障害者1級。79歳で亡くなりました。

 

母は2013年9月にベンゾジアゼピン系の薬のODによる癲癇発作で倒れ、在宅で減薬&断薬中に寝たきりになりました。要介護5。重度身体障害者。2015年4月から特養に入所。入所後に脱水で入院。昨年秋、褥瘡悪化で、感染症予防のため右足切断。我々と同様に双極性障害認知症もあると思われます。現在82歳。

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始めを振り返ると…

 

何事にも「始まり」というのがありますね。私の場合もそうでした。ちょっと前振りがあります。それは中学生の時に遡ります。

中学生の私は頻繁に偏頭痛を起こしていたものの、なんとか学校を休むことはなく、わりと元気に通学していた感じでした。でも、目に見えないところで徐々に変化は起きていたようです。

ちょっとした腹痛、それもトイレに走りこむような、吐き気までする偏頭痛の痛みに比べれば、まったくたいしたことがないレベルの腹痛でした。祖母が持っていた陀羅尼助丸を飲めばましになる程度。当時はあの苦い薬が愛用薬でした。ほとんどそれを気にしないままに中学時代は終わり、その結果が表面化したのが高2の夏でした。



高2の7月に修学旅行で東北を一周することになりました。中学の時の修学旅行に行けなかった経験がある(実は生理痛のひどさと体調の悪さ、厭世観とのトリプルパンチが原因)ため、今度は是非とも行きたいと思いました。が、また生憎、ちょうど生理にぶつかるなあ、ということで(私の場合は精神症状を伴ってとても重かったのですね。かろうじて通学が可能な程度)当時、市販されていた生理を遅らせる飲み薬、というのを使いました。あれってホルモン剤かなにかでしょうね?

それでもどことなくなんとなく体調が悪い。なんだけ吐き気もするし。なんとか初日は無事に終わったものの、裏磐梯の宿舎に止まった夜には体調はもっと悪くなっていました。もちろん眠れません。一晩中野鳥の声を聞いていました。

二日目に、磐梯山を始めとしたバス移動の日だったんですが、私はもうぐったりと動けず、先生やバスガイドさんからは乗り物酔いかと思われて、休憩所のベッドに横にならせてもらったり、バスの中で酔い止めの薬やウィスキーなんかを飲ませてもらっていました。

その日の夕方にはすでに動けず、仙台郊外の秋保温泉の宿で、ぐったりしたままでした。その翌日には両親と荷物持ちをかって出た小学生の弟が到着。当時はまだ東北新幹線もありません。地元のお医者さん(もう80歳は越えておられると見える高齢の先生)に安定剤か鎮静剤の注射をしてもらって、「この子、虫垂炎とかまだ手術してないね。帰ったらすぐに外科に行きなさい」と言われたんですよね。

仙台で入院&手術か、京都に帰ってからにするか?両親は悩みましたが、化膿などの緊急性はさほどないことで、京都に帰ってからの入院&手術になりました。


京都では外科の先生に「これだったら100回くらい痛んでたはずや。あんたらこの子死なす気か?」と両親は怒られたそうです。化膿はひどくなかったけど、癒着がひどくて、普通の人の倍以上の手術時間がかかったんですよね。

術後、この夏もかなり暑くて、38度を越えていた記憶があります。ほとんど寝ていたんですが、トイレに立とうとすると目の前が真っ暗になって、それだけ貧血していたようです。手術したその夜に生理にもなったし。痛さも出血も倍加されてました。麻酔から醒める時の気分も悪かったし… (ーー;)

それでも傷がましになり、夏休みも終わりに近づくと、やはり若いから少しずつ動きたくなってきます。ちょうど祖母が以前に住んでいた上京区の家の隣の薬局で便秘薬かなにかを欲しがっていて、調合してもらったそれを取りにいこうと思ったんですね。

宅配便もまだない時代です。もちろん地下鉄もありません。京都駅でバスを乗り継いで行かないといけません。夏休みで暇だった小6の弟もついてきました。(私が心配だったのかもしれませんが)

で、バスに乗ってしばらくすると、徐々に気分が悪くなってきました。冷や汗が出る。頭がくらくらする、動悸がひどい、心臓が口から飛び出しそう、吐き気がする、もう駄目、死んじゃいそう(>_<) …と、私は弟を引っ張ってバスを飛び降り、道に蹲ってしまいました。


そこはちょうど大きな工場の前で、詰め所にいらした事務のお姉さんが、駆けつけてくださって、弟はそこで電話を借りて、当時伯父の工場で働いていた母に連絡。

伯父と母が車で駆けつけてくれて、かかりつけの内科の先生の診察を受けることになったのでした。

忘れもしない、あれが初めてのパニック発作でした。当時はまだそういう病名はなくて、「不安神経症」と呼ばれていました。


 

 

心身の療法をしていた10代後半~20代前半


パニック障害」っていうのは「障害」という名前であってもホントに障害認定されないのは、治りやすい病気だってことですよね。まあ、いささかの時間はかかっても。私も治るまでに30年くらいかかりました。

弟はまだそこまでに至りません。初期の段階でこじらせた経過があって、初期治療の素早さと的確さは本当に大事だなあ、と思っております。


高校生の夏以降、そうですね、20代の前半ごろはかなりガタガタの時代でしたね。

とにかく高の夏休みが終わっても全体的な体調は良くなくて、学校もほとんど休みがちになって、ゴロゴロ悶々と日々を過ごしておりました。血液検査の結果、アミラーゼの値がひどく高い。要するに慢性膵炎と見られる、という診断が出てしまいました。

入院が必要だと思うので、当時まだ小さいけれども入院設備があったかかりつけの先生の病院を勧められました。が、母は「家でなんとかします」と断り、まあ、幸いにも近所だったこともあって、通院しながら食事療法の毎日になったわけですね。

実際に痛みは急性よりひどくないものの、食後の重苦しさは、だるさはやっぱりひどくて、嫌でも横にならざるを得ない状態の毎日です。

パニック発作の方は、ひどいものは起きないけれど、やはり衝撃的な経験だったので、ずっと不安が消えずにありました。

それでも在学中は、「出席日数」という課題があります。幸いにも私は長期欠席しても成績は問題にならなかったので、その出席日数だけが問題でした。「机の上で寝ていてもいいから出てこい」と言われて、病院で点滴を受けてから、タクシーできわどい科目だけ受けるために学校に走ったりもしていました。

なにしろ体調自体が悪いわけだから、いつパニックが起きても不思議ではありません。実はこのころのことはあんまり記憶にないのです。が、1人で出掛けるのが不安、と思っていたから、すでに何度もパニック発作は起きていたと思います。

当時の私はあんまり生きている実感がなくて、魂か幽体か精神か、なにかわかりませんが、肉体を置き去りにして意識だけが身体の上、数メートルの高さのところにあるなあ、と感じていました。特に歩いている最中とか、歩いている実感がなかったんですよね。空中を漂っている感じ。食べてお腹が苦しい時だけ戻っているみたいな。

ああいうのが俗に言う離人症なのかな?とも思ったんですが、そうでもないみたいです。でもなんか不思議な感じでした。

 

 

まあ、そんなだから進学とか考える状態になく、特にやりたい学問もなく、療養しながら、せめて手に職を付けたいと洋裁を習いに行っていましたが。徒歩で通える距離だったので、緊張はしたけれど、発作が起きることはなかったと思います。

ちょうど膵炎のための食餌療法をするついでに、と言って、ダイエットを始めたのもこのころですね。もともと脂肪分と糖分の制限をしていたため、他の栄養のバランスを考えて一日1600kcalにして、さらについでに裏庭(が当時はあった)で縄跳びをしてました。

これが結構効果があって、(若いしね)高2の時に65キロくらいだったのが、徐々に落ちて、23歳くらいの時には40キロ台後半になっていました。それ以上落とすと顔がとがってみっともないのと、腰骨が当たって痛いのとで、そこでストップして、以後15年維持していましたが。ただし貧血はしました。慌てて治しましたけど。

 

で、洋裁を数年続けてから、就職したくて、医療事務の勉強をして。病院関係の仕事なら、発作が起きてもなんとかなるだろう、ということがしっかり頭にあったんですね。で、小児科医院に勤めましたが、もくろみは上手くいって、勤務中はパニックのことを考えずに済んでいました。

お能などに通っていたのもこのころですね。映画と違って、能舞台はパニックの原因になるようなものはないので、リラックスして見ることが出来て好きでした。贅沢だけどタクシーだったな。行きはタクシーで帰りはバストか電車、という感じ。

パニック発作も強弱が双極性2型のように波の形の変化を続けていました。

遠くまで通勤する自信はない。なるべく交通機関は避けたいとのことで、私が勤務する場所は大抵自転車で通える範囲にありました。もっとも発作が起きづらい乗り物ですね (^_^;)

そうこうするうちに弟が結婚したいということで、結納やら顔合わせやらで新幹線にも乗りましたが、これは家族ぐるみの移動なので、さすがに緊張もましですね。

それでもパニックが一番ひどかった時は、家の近くの国道の信号も渡れませんでした。渡れば大きめの本屋さんがあるし、そこに行きたいのに行けない。とにかく信号の側に来ると足が動かなくなるんです。動悸がひどくて、渡ったら最後、引き返せないようになる感じで…。

それから家に居ても発作が起きるようになりました。これはさすがにどうしたらいいのかわかりませんでした。一番落ち着けるはずの家にいるのに…。

パニック発作で一番辛かった時かもしれません。が、実はそのもっともひどい最中にひとつの「気付き」が訪れたのですね。

 


「あっ」と思った時がチャンス到来だった


個人的な実感ですが、精神障害というものが改善に向かうきっかけになるために、ある種の「気付き」というのはとても大きくで重要な役割を果たしているような気がします。

「気付き」たとえば、悩み事があって、解決策を求めてずっと考え続けていて、考えあぐねて、一旦休止、風呂にでも入ろう、とした、その瞬間、突然閃くもの。

創作をしている人間はわかりやすいのですが、漫画のストーリーを練っていて、どうしても行き詰まってしまう、ここに必要なセリフ、もしくはシーンはなんだ?キャラクターの行動は?と、これもまた悩みつつ答えが出なくて、仕方がないから寝ようかなあ、と横になった瞬間に閃いたりして、跳ね起きて描き留める、とか。

そういう類の「気付き」が精神疾患にもあるんですよ。

私の場合、家族は全員それぞれの用事で外出していて、1人で留守番をしないといけないことがありました。

家に居ても予期不安が強く、もしもなにかあったらどうしよう?と携帯もない頃でしたから、家の電話の前にじーっと座り込んでいました。その時には発作も始まっていて、真剣に救急車を呼ぶべきか、もしくは家族の誰に連絡するか?と受話器に手をの伸ばそうとしていたんですね。

ちょうどその時、宅配便のお兄さんが「お届けものです」と来られました。

咄嗟のことで、そのお兄さんに助けを求めようかと思っても不思議ではなかったんですが、なぜかきわめて普通の応対をしてしまったんですよね、私。

ハンコを捺して荷物を引き取って、部屋に戻って、ふと気付いたら、あれ?なんだかひどい発作の症状がましになっている。まともな応対をしていたその時って、一時的にしろ身体的な症状から意識がそれて、瞬間的に身体のことを忘れていたんです。

「そうか!これか!」と思いました。「意識を逸らせる」パニックしている身体のことは一旦そこに置いといて、目の前のやるべきことに意識を向けること。その重要性に気付いた瞬間でした。


自分1人で不安だったら一緒にいる人と雑談して、なるべく身体の状態は気にしないこと。やばいな、と感じたらなんでもいいから身体の状態から気を逸らせること。当時はまだ幼児だった姪としゃべっていてもそれが可能でしたから、それの繰り返しで予期不安は徐々に改善されていきました。


旅行もしましたよ。家族と一緒に。
パニック障害の人は飛行機に乗らないでくれ、とか言われてましたが、私は沖縄にも北海道にも行きたいし、せっかくのチャンスだし。飛行機に乗ったら万一それが墜落して死んでも仕方がない、諦めよう。開き直りですね。そうすると緊張はしてもパニックにはならないんですね。

なにしろパニック障害は死ぬのが怖くて死にそうになる病気なので、「死んでもいい」という覚悟を決めると、また違ってくるんです。ああいうのも認知行動療法みたいなものかもしれませんね。


その後、初めて精神科を受診したのは10年ちょっと前ですが、当初は難治性のうつ病だと言われていて、長くパキシルを飲んでました。セロトニン関係に効く薬なので、片頭痛も治りましたが、パニックにも多少効果があったかもしれません。

結局、のちに8年以上もかかって双極性2型障害だと判明する次第ですが。

でも2004年の夏から現在に到るまで、弟と父と母、3人が次々に病気で倒れ、救急搬送されて、そのつど付き添いで救急車に乗るはめになりました。10年のあいだに十数回。普通はそんなには乗らないですよね。

夜中だろうが昼間だろうがばたばたと準備して走るわけで、大抵はそのまま入院になりますから、手続きなどにも走り回ることになるわけです。自分の体調のことなんて気にしている場合ではありません。救急搬送→入院→在宅介護…。そういうパターンで家族のために走り回っていたら、ふと気付いたらこの10年でパニック発作のパの字もすっかり感じなくなっていたというか、忘れていたというか…。

 

死生観もすっかり変わっていて、死ぬのがまったく怖くなくなっていたこともありますね。いまさらパニックになっても仕方がないじゃんね、という意識変化は大きかったです。

もちろん今でも動悸や吐き気やもろもろの変化を感じることはあります、人間ですから。でもそれに振り回されることはなくなりました。「ああ、また自律神経が乱れてるな」と思うくらい。症状はあっても無視していると勝手に治まっています。

結局、捕らわれる意識の病なのかな?と今になると思いますね。だから捕らわれる必要はないんだ、と気付くと改善するの。自分の体験ではそれがよくわかりました。


意識的には他の精神疾患にも応用が効くと思います。むやみに捕らわれる必要はない、という感じ。それがあると、少しは生きやすくなるかもしれませんね。

 

 


個人差と創造性との関係もあります


うちの場合、弟も同じ病気で療養を続けています。状態は私よりも悪く、パニック障害をこじらせて、いまだにその影響から抜け出せずにいます。子供もいたんですが、10年以上前に病気が良くなる気配がないから、と離婚して、子供たちは他府県の母方の実家で成人しました。

昨年あたりの弟はセルフネグレクトに近い感じなので、結局は私が母と弟の面倒をみていた感じですね。やっと少し前から、精神科の訪問看護師さんに週に一度来ていただいています。万一、私になにかあっても、相談に乗ってくれる人が必要だと思ったので…。少しだけ気が楽になったかもしれません。

でもさすがに「障害」というだけあって、私の場合は家事にエネルギーを使うことが出来ません。とりわけ料理が駄目です。身体に悪くてもコンビニのお弁当などでしのぐしかありません。
掃除はまだいくらか出来ますが、これも週に一度、自立支援のヘルパーさんが来てくださっています。ありがたいことです。


そういう状況なのに、仕事とか、趣味のお絵描きは出来るんですよね。不思議ですが。

 

「創造性と精神疾患に関連性。創造性豊かな人ほど精神に異常をきたしやすい傾向(スウェーデン研究)」という研究結果もありますが。

こういう記事を見ると、創造性と精神疾患に関わる遺伝子は限りなくセットに近いんだろうか?と思ってしまうんですが、あながち間違いとも思えないのが実感ですね。

 


特にうつがひどくて希死念慮を抱えている時などは、明らかに脳の中で変化が起きているのが自覚出来るんですね。はっきりわかる人は少ないかもしれませんが。私はわりと自分でわかります。その最中は自力ではコントロール不可能な変化が起きています。いわゆる脳と言うコントロールセンターの大混乱ですね。

だから創造という手段で、その混乱をある程度コントロールが出来るんじゃないかと思えてきます。クリエイティブな方向につなげることで自分自身を癒すことも可能だと思います。これは私の実感からですが (^_^;)

そもそも自分自身を癒すことが出来なくて、他人を癒すことなど不可能だ、と日本画家の千住博さんも言ってますし (^_^;)

 

私の場合なら「絵を描いて自分の病を癒す」ことだって不可能ではないし。

「クリエイティブイルネス(創造の病)」という指摘は的確だと思います。100%の人に当てはまらないとしても…。創造することが好きな人にはギフトかもしれないなあ、と私は結構能天気に受け止めています (^_^;)

 

希死念慮=死神」をキャラクター化してみる試みもしています。

 


もしもこの双極性2型という病気が治るとしても、その代償に絵が描けなくなるとしたら、そんなつまらない人生はいらないなあ。生涯治らなくてもいい、というのを選択すると思います。

 

すんごい大変な友人なんだけど、私には必要不可欠な友人かもしれません。だから誰にもあえて病気は隠していません。大事な私のパーソナリティの一部だから。

 

そういうふうな病気とのおつきあいがあってもいいんじゃないかと思うな (^_^) 根本的に哲学体質ではありますが、わりと前向きな人間かもしれませんね。これも病気になって気付いたことです。その意味でもありがたいと感じる双極性2型障害という病気です。

 

     ーーーーーーーー続きます

 

 

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