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両親の介護も一段落 双極性2型障害と気長に共生中

亡くして知る父の偉大さ(病気へのプラス思考)

昨日のFacebookでの父の日絡みのエピソードで思い出したことなど…。

 

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(キャプチャーですみません)

 

 

私が生まれて初めて喋った言葉は「パパ」だったそうです。(母の証言)食べもののことでもなく、「ママ」でもなくて、最初に「パパ」。

 

「…だったら『パパとママ』にしよう」と母が思ったそうですが、「ママ」はなかなか言ってくれなかった、と言われています (^_^;) 発音のしやすさの違いでしょうかね??

 

 

当時、弟はまだ産まれていなくて、父の通勤は市電を利用していました。夕方になると母と私は停留所まで父を迎えに行きます。父が降りてきて「パーパ」と私が呼ぶと、父はかばんを母に預けて私を肩車してくれて、そのまま家まで3人で歩いて帰りました。まだ家にテレビがなかったころ、私が1〜3歳くらいではないかと思います。

 

父の肩車では祇園祭宵山などにも出掛けたんですが、これはあまりはっきりした記憶がありません。

 

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同じ夏の記憶ですが、弟が産まれたばかりのころ、当時お世話になっていた小児科の部長先生が、夜は自宅で診察をされていたので、出町柳にあるT先生のお宅まで、父がバイクの後ろに乗せて連れて行ったことがありました。ベルトにベルトで固定されて、落ちないように…。当時はノーヘルでおとがめなしの時代です。

 

でも帰り道で雨が降ってきたんですよね。父はタクシーを拾って、私を乗せて、自分は濡れながら並走して帰宅したことがありました。

 

なぜだろう?当時の記憶は人生の始まりのことなのに、どこか黄昏に近い色合いに満たされています。黄昏の中で遊んでいた記憶も強いからかもしれません。

 


私は父が好きでしたから、世間的な父と娘の関係ほど距離は置いていないと思います。「話しもしない」なんてことはなかったし…。カーナビがない時代のドライブでは常に助手席でナビをしていたし。

 

介護も大変だったけど、それなりに楽しさも感じていましたし…。わりと近しい父娘だったのかもしれません。

 

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あと、上の話に出てきたT先生のこと。当時第二日赤の小児科部長で、名医と言われていた方ですが、弱かった私は本当にT先生にはお世話になりました。

 

で、この先生が私が自家中毒を起こすたびに母に「よかったですねえ、お母さん。この子は頭がいいですよ」と言ってくださったおかげで、母の中のマイナスイメージが少なくなり(実際に成長すればかからなくなる病気ですが)過剰な心配をすることがなくなったのでは?と思っています。

 

病気=マイナスイメージでなくなったということは今から思えば結構大きな視点の変換だったなあ、と思います。

 

それは私自身にも大きな影響をもたらしていて、病気になると、明らかな不摂生で自分が悪いのは明確な場合は別として、まず意味を考えるようになったこと。それからプラス面を考えるようになったこと、というのはとても大きいと思っています。

 

不必要に自分を責めない。落ち込まない。でも考える。考えてなにかをみつけて立ち直る。…それの繰り返しでしたね。だから私には病気はマイナスの体験ではないんですよ。もちろん現在でも。

 

双極性障害のことも診断された時に、T先生の口調で「よかったねえ、クリエイティブな才能があるよ」というお墨付きをもらったようで、妙に嬉しくも感じていましたし…(^_^;) 「いいところ」ってきっとあると思ってた。だから今後はそれをもっと生かしていけばいいんだなあ、と…。

 

T先生はそこまでの未来を想定されておられなかったと思いますが、実はここまで未来にまで影響を与えてくださっていたのでした。いまにして思えばT先生も偉大な父親みたいな方だったかもしれないなあ、と改めて感謝しています (^_^)

 

もうとっくにこの世にはいらっしゃいませんが、私の父ともどもに感謝したい父親的な方でした。

 

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