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両親の介護も一段落 双極性2型障害と気長に共生中

私には呼吸と同じこと

昨日、Twitterで自殺の衝動性について書いていた人と少しやりとりをした。 私にとっては「死」はまったく特別なテーマではなくて、常に日常の延長にあるもの。 …だからタブーではない。生を考えることと死を考えることは同じことだと思う。 いや、そのテーマではなくて。

 

私がまた改めて考えたのは自分にとっての「絵を描くこと」についてだった。 生まれて初めてクレヨンを持って、絵を描いた、というか、線を引いたのは何歳頃だろうか。 父の設計図面の青焼きの用紙を切って、裏返しに紐で綴じて母がお絵描き帳を作ってくれた。それを何冊も描きつぶす。多分、2、3歳。 幼稚園では幼稚園のお絵描き帳があったが、それもあっというまに1冊を描き潰す。クラスのどの子よりもお絵描き帳を消費した子供だった。 私にとって「絵を描く」というのは呼吸をする、食事をするのと同じこと。 同じくらいに自然なこととして存在していると思う。 現在に至るまで、ひと月も描かなかった時期がないんだよね。

 

それだけ長く続けているにも関わらず、対して上手くないのは、もともとそんなに才能があるからではないと思っている。 あるとすれば「継続する」という私にとってはさほど努力を要しない才能だけ。

 

絵で身を立てようとか、お金もうけをしたいとか思ったこともなかった。 したがって本格的に学んだこともない。 幼稚園の時にYWCAで絵の教室に行ってみたけど、面白いと思えずに1回でやめた。高1の時に通信教育でイラストを習っていたが、これも疑問が生じて半分くらいでやめてしまったし。 美術系の高校進学も考えはしたけど、今思えば行かなくて正解だったかもしれない。

 

そのくせ、自分の進路とか将来のことを選択する段階になると、私は必ず「絵が描けること」を第一条件に置いていた。仕事が忙しくて描けない、なんて論外だと思っていた。

 

だって「呼吸するのと同じこと」だからできなければ死んでしまう。 その確信はあった。他のものの犠牲になって描くのをやめる、というのは論外だった。 …なんなんでしょうね、この思いは…。自分でも不思議だと思う。

 

でも「呼吸するのと同じ」というのは真理。出来なければ死ぬと思う。 人生の晩年に近づいて、その特別なものがようやく職業的なものと同一化しようとしているが、仮にそうでなくてもやっぱり死ぬまで描くことはやめないし、描き続ける努力もやめないだろうな。 「空気のようなもの」の存在の圧倒的な重さ、それでいて軽さ、どこまでも自由なもの。 やはり自分でも非常に不思議です。 たまたまみつけたブログ、なかなか面白い内容だったので… (^_^;) 「絵を描く脳・ネアンデルタール人と日本人・23」

 

 

 

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