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両親の介護も一段落 双極性2型障害と気長に共生中

「虚しさ」に向き合う宿命か?

ある程度、経済や政情が安定している国に生まれたとしよう。 日本もそのうちのひとつだけれど、ここではいくらか努力して学び、 また働けば、自分が欲しいものは手に入りやすい。学歴や地位、 暖かい穏やかな家庭、自分が人生を賭けてやりたいこと、仕事、 住いとしての家、車などなど、物を手に入れるために励む人もいる。

 

そうしてひとつひとつ目的のものを手に入れていって、今度は 自分のためだけではなく、他の多くの人のために出来ることをする。 それもまた大きな生き甲斐。

 

それなのに、人はある時突然に気付いてしまう。自分の中にある 「虚しさ」の存在に。 その虚しさは、もはや物では埋められない。 愛する人がそばにいても充足し尽くせない。

 

この虚しさの意義はなんだろうか? 人はあるいは「虚しさ」とセットで生まれてきた生物かもしれない。 この問いゆえに、多くの宗教が生まれ、哲学が生まれ、芸術が生まれ、 スピリチュアルな問いかけが生まれ、そもそもあらゆる学問が この問いから生まれたのかもしれない、と思う。

 

自分の中にある「虚しさ」に気付かないように、スポーツの応援に 熱狂し、年に一度の祭りに熱狂し、形にしたいとあがきながら創作する。 そういうこともあるのだと聞いた。 この極めて根源的な問いについて、手近な解答はいくつか導けるけれど、 それらもまだ充分とはいえない気がする。

 

そもそも、この天国と地獄を行き来するような気分障害も謎だ。 根源的虚無など忘れたくても忘れさせてくれないこの病は…。 モノへの執着を手放し、なにかの行事に打ち込むことも不可能にしてくれた。

 

けれどもこの現状を不幸だとは思わないけれど。 「虚しさ』の存在に生涯気付かないまま終わる人もいるかもしれない。 けれども精神の病を得るということは根源的な問いに向かい合う 宿命を与えられたようなものだとも思う。

 

…ああ、だからクリエイティブイルネスなのか。 なんとなく納得してしまった。 創造の病、意味の病でもあるんだなあ。

 

 

 

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