つれづれ日記ー逝春抄ー

お絵描きと介護で多忙な日々 双極性2型障害と気長に共生中

「誰かが見ている」ことの幸福

今日は母の内科の受診日。まだ夜明け前なのにごそごそ音がする、と思ったら、なんと午前3時くらいから起きていたんだそう。この内科の受診日、やたらと緊張するのか身構えるのか、早起きが次第にひどくなってるなー。長年お世話になっている先生だし、タクシーも予約してあるんだけど、そういうのとはまた別らしい (ーー;) こちらまでものすごく落ち着かない。

ちなみに精神科の方は私や弟と一緒だからか、さほど緊張することはないようだ。こちらは4週に一度なんだけど。内科の方は2週に一度だから、

結構しばしば、という印象が残るのかなあ… (ーー;) いずれにしてもやれやれ、という心境だったり。

昨日、「宅間守 精神鑑定書」を読み終えて、本のテーマ以外のこともあれこれと考えた。本のことについてはまた機会があれば触れることにして、そこから派生した思考というかなんというか。

どうやら私は今現在、この肉体を持って生きている3次元世界と同時に、常に重なるいくつかの別の次元を感じながら生きてるなあ、というのが改めてよくわかった。

どう表現すればいいのか…。別の次元には肉体を持った存在はいない。だから霊界とか天国とかそういう言葉で表現出来るかというと、それもまた違う気がする。ただ、そちらの世界の方が高い波動の次元にあるから、肉体を持っては行くことが不可能なんだなあ。でも意志や心情は伝えあうことが出来る。今生に生まれてくる前にそこにいたのかもしれない。また死後に還る場所なのかもしれない。

スピリチュアルのようで、宗教のようでもあるけれど、どこの既成の宗教にも当てはまらない。それでも私には「ある」と感じられる世界。実際にあちらの世界からの手助けは思わぬ形で顕現することもあるし。私利私欲を超えた願いがひっそりとかなえられることもある。基本は大変厳しいけれども、たまに愛情も感じられるというか… (^_^;)

ごく幼いころから、そういうものを感じていたふしがある。たとえ誰が見ていなくても「お天道さまが見ている」という感覚はずっとあって、だから悪いことも出来なかったし、しようとも思わなかった。この意識はどこから来たのか、いくら考えても不思議で仕方がないけれど…。

他人に布教すると宗教になるけれど、そうじゃなくて、自分が生きる指針として、ただ密やかにずっと胸に抱いていたいなあ、といままでも思っていたし、これからもそう思っている。

自殺にストップをかけてくれるのもこの世界の誰かだし、信念を持って選択していいんだ、と背中を押してくれるのもこの世界の誰か。不便だから神様と呼んでみたり、天使と呼んでみたり、守護霊と呼んでみたりするけれど、どれも近いようで、また違うようだとも感じていたりするのです。

この同調圧力の強い世の中で、他人と違うことをしてもいじめられることもなく、むしろ手助けをもらえることの方が多いのも、やはりそういう「誰か」のおかげだと思っている。

宅間守という人間にはそういうものを感じることが出来なかったんだなあ…。それどころか生身の人間に共感することや相手の気持を思いやることも出来なかったんだ。非常な不幸だと思うし、孤独だとも思うけれど、彼自身にそういう自覚がなかったのは幸か不幸かわからない。他人を傷つけることでしか関われなかった人間の不幸。

人生のごく早い時期ならばあるいは修正が可能だったかもしれないけれど…。もしもそれが可能だったら、あるいはあの小学校の事件も未然に防ぐことも出来たかもしれない。

ずっと彼の精神鑑定にあたってこられた先生の苦悩は想像に余りあると思う。それでも大いなる勇気と覚悟を持って、この本を世に送り出されたことに、感謝と敬意を表したいと思います。