お互いさま おかげさま ありがとう

両親の介護も一段落 双極性2型障害と気長に共生中

これが普通の感覚だと思う

先日のETV特集より、私がまったく同意見だなあ、と思った対談を書き起こしてくださった方がありました。

感謝しつつ、こちらにも引用させていただきますね。

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原発災害の地にて 対談 玄侑宗久・吉岡忍」書き起こし(改訂版1.01)。

http://www.twitlonger.com/show/9lhd98

長いので、本文は追記からどうぞ。

原発災害の地にて 対談 玄侑宗久・吉岡忍」書き起こし(改訂版1.01)。

ETV特集。2011年4月3日放送

http://www.nhk.or.jp/etv21c/update/2011/0403.html

■書き起こし

福島県南相馬市

 福島第一原子力発電所の北方に位置する沿岸部の町。3月11日マグニチュード9の地震と巨大な津波がこの地を襲った。1,800以上の家が破壊され、4 月1日現在死者・行方不明者は1,474人。20日近くが過ぎ、宮城や岩手から復旧活動の動きが伝わる中、この一帯にはほとんど人影がない。

 地震津波に続いた福島第一原発の事故によって放射能が漏れ出し、人々に不安を与えているからだ。

「全然いないよね」

 震災直後から被災地を取材している吉岡忍さん。

 家を片づけている人を見つけた。

田代秀利さん「これ2階。下部分はみんな流されちゃって。」

田代京子さん「避難できなかった。だから2階に上がった。そのまんま流されて。私と隣の子どもと犬と。崩れた意味が分からなかった。ただ(周りの)家が流されてガーッて来たのは分かった。自分が流されてるのは知らなかった。そのまま建ってると思った。人が見えたからおかしいと思って。あ、流されたんだなと。(その時は浮いてる?)そうです。身体も全部浮いてる。後ろのお婆ちゃんとか。赤ちゃん流された人が一番気の毒です。(その子は?)助からなかった。」

秀利さん「原発さえなければ皆避難しないで今頃片付けとかしてたでしょう。(捜索も)もうできない状態です。やっぱり原発が一番大きい。戻るに戻れなくて。もう住めないですね」

京子さん「住まない。もうなんぼ津波が来ないと言ってももう住みません。出ていきます。」

 原発事故は周辺の町に何をもたらしたのか。人々はどのように生活しているのか。

 福島第一原発から西に45km離れた三春町(みはるまち)。

 この地に500年続く福聚寺(ふくじゅうじ)。芥川賞作家の玄侑宗久(げんゆう・そうきゅう)さんが住職を務めている。地震により1,000を超える墓石の7割がずれたり倒れたりするなど、大きな被害を受けた。壊れた墓を直しながら、重く心にのしかかっているのが原発事故だ。玄侑さんは事故発生以来、現地で感じていることを新聞やブログを通じて発信している。

玄侑さん「梅が遅いですから。梅と桜と桃が一気に見られる、三つの春が一緒に来るというので三春。一気に咲くので春が楽しみなんです、ここの人たちはみんな。室町時代には"御春"と書いてました。そのくらい春が楽しみだったんですけど、今年は春風が吹いてほしくない。」

 花を咲かせる春風は東から吹く。それは原発からの風。

檀家さん「少しだけ手を合わせてもらってもいいですか? 少しでいいので。申し訳ありません、お忙しいところ。」

色も匂いもない放射能。その中をお彼岸に供える花を携えて、卒塔婆を立てに檀家さんが訪ねて来る。

(檀家さんと二人、墓の前で手を合わせて)

玄侑さん「はぁ。本当にひどいですね。…(お経を唱える)」

 宮城の気仙沼石巻、女川と被災地を南下し取材を進めてきた吉岡さん。福島に入り、三春の玄侑さんを訪ねた。

「玄侑さん、どうもおはようございます。吉岡でございます。」

 地震津波、そして原発事故。災害の連鎖に今何を考え、何をなすべきか。原発事故が起きた福島で、二人が語り合う。

タイトルテロップ「原発災害の地にて~対談 玄侑宗久・吉岡忍~」

  * * *

[以下、吉岡忍氏=吉岡、玄侑宗久氏=玄侑と表記する。対談部分は「 」を省略する。]

吉岡:今お寺の被害の状況を見せていただいたわけですけども、震災からもう20日以上経とうとしています。南相馬から浪江町のあたりにかけて、避難地域から屋内退避の地域まで見てきたんですが、本当に現在進行中で。で、今その渦中にいらっしゃるわけで。

玄侑:北の方、特に山田町、南三陸町石巻。ああいうところの大量死も未曾有のことですし、どう埋葬し、どう供養するのかも深刻な問題だと思います。大量死で、身元確認もできないまま土葬せざるを得ない。これもあまり経験のなかったことではないかと。

吉岡:日本の新聞ではあまり映像が出てないんですが、ニューヨーク・タイムズのトップページに、ずらっと棺が並べられた映像が出ていました。

http://www.nytimes.com/interactive/2011/03/12/world/asia/20110312_japan.html#1

http://blog.hix05.com/blog/Photo2011a/110342.burial-iht.jpg

玄侑:身元不明ですから。被害に遭って亡くなった後のご遺体の写真。顔の上半分が完全に壊れているとか、それ以上の場合は布で覆ってあるわけです。布で覆った状態を写真に撮っているんですが、それでは個人識別できないので、下着の写真が棺の上に添えてある。でも、みんな泥水に浸っている。元何色の下着だったか分からない。みんな薄茶色なんです。

吉岡:現実自体がメルトダウンしている、どこまで落ちていくんだ、と感じるんです。

玄侑:災害そのものが複合的です。地震津波、そこに原発が加わった。非常に様相が違ってきているという感じはあります。

  * * *

 三春町の東隣り、田村市の総合体育館。ここには福島第一原発が立地する、大熊町の住民が避難している。大熊町は1970年1号機が運転を開始して以来、原発と共に歩んできた。

吉岡さん「疲れたでしょう? どんな仕事をされてたんですか?」

菅野義光さん「塗装業です。」

中山洋さん「海関係。魚を買って築地に運んでる。」

吉岡「大熊町原発の地元で、原発があることに皆さん慣れてたじゃないですか。安心、安全だと言われて…」

中山「原発には半分の人は反対してた。」

菅野「年寄りの人は反対だったよな。」

中山「一度は爆発すると思ってた。」

菅野「広島原爆と同じ設備だと思っちゃうからな。放射能っていうと。」

吉岡「でも、そういう皆さんの声ってあんまり上がってこなかったじゃないですか。」

中山「結局、上の賛成しているやつに消されちゃうから。だって、反対してる人は年寄り、若い人、女の子で、中間は少ない。原発関係で仕事してたら反対できないわな。」

吉岡「大熊町の何割ぐらいが原発絡みの仕事をしてる?」

菅野「まあ、全体だべな。」

中山「7、8割はいってるかな。」

菅野「原発できて、われわれの町は裕福になっただんだから。はっきり言って。なかったらチロリンさん(?)みたいなもんだ。」

中山「出稼ぎだ。」

菅野「そういうところはありがてえけどもな。原発さんてのは、地震なんぼきても"安心ですから"って言葉いってたわけよ。」

中山「原発がこうなったとき、あいつら、最初テレビでなんて言ってたか知ってるか? "俺等も被害者だ"って。こんな話あっか? 東京電力が被害者だって。誰も原発には来ないよ。だから、安全だ、安心だって言ったやつをここに引っ張って来い、って言ったの。」

 住民は大熊町にいつ帰れるのか全く見通しが立たない。新学期を前に、町長は町ぐるみで会津若松市に集団移転することを決意した。地震から3週間、町民は「ふるさと喪失」という事態に直面している。

松本七重さん「今はもうパニック。町の様子もテレビでは放送されないじゃない、東電のしか。どんな感じになってるのかと思って。気になる。(原発から家までは?)2.5kmくらい。」

松本幸子さん「暮らせないにしても、大事なものだけでも一度取りに戻りたいかなと思います。何も持たず、ただただ逃げてきたんで。」

吉岡「ちゃんとした情報が伝えられてると思いますか?」

松本七重さん「ちょっと…嘘の部分もあるんじゃないかと思って。放射能の濃度とか。あやふやなとこがあって。」

(赤ん坊をおぶった女性)「子どもが、孫がちっちゃいから。この子たちの世代に影響出るのが怖いです。私たちはもう、なるようにしかならないと思ってるので。」

 整体師の和田耕二さん。原発の近くで開業していた。避難民の不安を和らげようとヒーリングをして回っている。

(古山さんをマッサージする和田さん)

和田さん「まさか避難するほどの事態が起きるとは思いもしなかったですね。」

古山英子さん「安全だ、安全だとか言ってたって。見えない、匂いはない、なんぼ恐ろしいか、それも分からない。チェルノブイリのあそこだって全滅でしょ。」

和田さん「津波で何も無くなった人もそりゃ大変でしょうけど、命が助かった、とにかく落ち着こうというそういう雰囲気でもないんですよね。」

隣のおじさん「津波とはまた違う。」

古山さん「恐ろしい。帰れない。」

  * * *

吉岡:よく今回の地震、震災では「想定外だった」と言われます。津波の高さ、マグニチュード、震度。原子力発電所がどうなってるかというときに、東京電力の記者会見で「想定外でした」という言葉があったんです。すごく違和感を感じたんです。自然に対しての想定外ってのはそうですが。

玄侑:当たり前のことですよね。

吉岡:「人間は自然を超えられない」というのは当たり前のことです。ただ、ありとあらゆる危険を想定して、「だから安全ですよ」と言って原子力発電所をここ福島に持ってきた。それに対して「想定外でした」とは決して口が裂けても言ってはいけない言葉だと私は思います。

玄侑:「想定内であらかた収めよう」という最近の風潮が、もろにあそこに露呈したと思います。私は禅宗なんですが、禅の考え方からすれば、今日の夕方だって想定外です。毎日毎日想定外のことがあるし、無ければ面白くも何ともない。自然の中に生きてるとはそういうことです。シミュレーションで自然さえ想定できると思っている傲慢さが今回ぶち砕かれたということではないでしょうかね。

吉岡:福島にいらして、テレビも新聞も、1号機がどうだ、2号機がどうだと連日のようにやるわけですよね。事実をきちんと伝えるということが全くできてない。

玄侑:きちんとしたデータを示してくだされば、世界中に、データから分析できる学者たちがいっぱいいるわけです。ところが、直接的なデータを示さず、「直ちに健康に影響する数値ではありません」と。あれ、ああすることに決まってるんでしょうかね? 

吉岡:いやそうは思えない。いまデータと仰ってたのは事実のことですよね。「直ちに問題はありません」というのは、2つのことが一緒になっています。「直ちに問題はありません、だから安心してください」というのは、事実と同時に、それを受け取った人たちにある行動を促しているわけです。事実と、こうすれば大丈夫、こうしなければいけませんと行動を促すことは、実は違うことなんですよ。しっかりと事実を押さえた上で、なおかつこれについてはあとは皆さんがご判断下さい、でいいんですよ。指示しなくたっていいんですよ。

玄侑:データそのものをはっきり示してもらいたい。そのために、始めから言ってくれないことが多すぎる。例えば、3号炉には「MOX燃料」(プルトニウムを含む核燃料)が使われている。プルトニウムというのがようやく最近(メディアにも)出てきましたが、3号炉のプルトニウムの危険性については始めから言われていました。3号炉がいわばチェルノブイリみたいなことになったらどうなるのか、という最悪のことも福島県民は割と感じていました。ところがそのことがいつになっても出てこない。3号炉が水素爆発を起こした時点で(3月14日11時1分、3号機で水素爆発)、福島県民は「かなりヤバい」と思っていた。いったい水素爆発でどういうことになってるのか、もの凄く知りたかったし、危機感があったんです。

(玄侑さんが、オーストリア気象地球力学中央研究所「放射性物質の飛散予測」の資料を取り出す。)

玄侑:これは後になって出てきた資料ですが、当日15日の放射能の動きです。濃淡も示されています。いったん北西方向に向かい、それが南に下って広がっています。私ら福島県民からすると、1号炉、3号炉、2号炉が逝ったという時に、どの程度のものがもの凄く出てるのかということが関心事なんです。その時に調べてみると、こういうことになってるんです。

(「原発周辺の放射能測定値」の資料を取り出す。)

玄侑:空白なんです。第一原発正門付近の測定器が停電で壊れたと言ってるんです。翌日からずっと。13日、14日とずっと空白で、15日から(正門付近の数値が)ぽつぽつと出始める。で、その時は今度はこっち(第一原発敷地内の別の計測地点と、大熊町の観測器)が壊れてると言うわけです。ちなみに、一番気になる15日の風向き。これも午前2時からアメダスの風向きが消えるんです。(気象庁によれば、原発周辺の観測機器は電源が確保できないため使用不能。)私らとすれば、風向き次第でどっちに飛ぶかが決まりますし、風の強さで何時間後にここに(放射能が)来るのかが分かるわけです。その判断のための材料が消されるんです。これがもし不安を煽らないためだとするならば、ちょっと言語道断だと思う。

吉岡:今何が起きているのかについての説明の仕方、どうしようとしているのかについても、何も伝わってこない。そこをメディアが一生懸命補強して解説するんですけれども、元々のデータがないから、そこはメディアにも限界があるんですよ。例えば、東京で見ていて、皆さん怒るだろうなと思ったのは、福島県の野菜。サンプルはほうれん草とかブロッコリーとか、1つか2つですよね。

玄侑:1つの行政で1品です。

吉岡:あれ聞いたときどう思いましたか?

(3月21日調べの「福島県産野菜の放射能汚染調査」資料を取り出す。)

玄侑:もう無茶苦茶な話です。私は即データをもらって見ましたが、本当にひどいです。第1回の調査では、会津地方を一切調べていません。例えば、問題のなかったところがあります。郡山市のキャベツは全く検出されてない。表の白いところは問題ないんです。天栄村のふきのとうも、全く検出されず(ND=検出されず)です。ところが、これを細かく言わないで、福島県全体の野菜、と言った。(そして出荷停止になった。)そして、郡山から近い須賀川の64歳の農家の方がこの翌日に自殺したんです。7,500株の有機キャベツを置いたまま。あまりにも酷いですね。どうして福島県全体なのか。この時の(風の)動きを見たって、県の西側まで(放射能は)行ってないんですよ。会津地方の野菜は無事です。直接的なデータを示すべきです。ここでもさっきと同じで、細かいデータを示さずに、大丈夫とか駄目とか…。

吉岡:大雑把なんですよ。ある意味情緒的なんです。

玄侑:これ(先ほどのデータ)をもし見ていたらば、須賀川のキャベツのおじさんは亡くならずに済んでますよ。あまりこういう場合に、どこかに対する批判的な言葉はよくないという一般論は分かります。でも、原発の問題に関しては、そう言っていられない。まだ進行してるし、進行の仕方を修正しないと困ることがすごくあると思う。

吉岡:今現在の問題として。

玄侑:食の安全の問題は、多くの福島県の農業者たちが長年心がけてきたことです。堆肥を作って、手間暇かけて、土を作って。で、食べて安全な野菜を、とやってきたわけですから。とにかく精密な土壌検査を県は急いでもらいたい。不安にさせないようにということかもしれないが、それは違う。隠されていることで不安は増えます。

吉岡:(不安は)増幅される。疑心暗鬼になる。

玄侑:疑心暗鬼ですね。

吉岡:それから、次に出てきた言葉が信用できなくなるんですよ。数値も。

玄侑:通常であれば、屋内退避は、何日か経って状況が改善されなければ、次の段階に移行するところでしょう。屋内退避がずっと続くと物資も供給されないし、ちょっとあり得ないことですよね。今回「自主的に避難することをお勧めします」という言い方を国からされましたけれども、非常に微妙な言い方です。実際はもう、ほとんどいなくなっている状態だったわけですが、「自主的に避難することをお勧めします」というのは、何か、「自己責任」と言われているような、非常に嫌な感じがしますね。

  * * *

 原発に通じる道。走るにつれて次第に車の姿もなくなっていく。

 避難した人がやむなく残していった飼い犬だろうか。紐をちぎって彷徨っていた。

 道の傍らで休んでいる男性に出会った。自宅に残した車を取りに避難所から原発近くの家まで40km以上の道のりを歩いていく途中だという。

「(仕事は?)建築業。原発はやってない。木造建築。(原発については?)最初から作るのは反対だった。危ないもん。われわれの時代にこうなるとは思わなかったがな。いつかこうなると思ってた。(反対だというのは町では言えなかった?)ああ…。でも、これは国でやることだべ。下で何言ってもどうにもならん。…この辺も放射能強い?」

「強い。非常に強い。」

(車内にて吉岡さん。)

「19.99(μSv/h)。振り切れてる。いや~、怖い。ひどいな。車内で19.99ですよ」

 車を走らせるうちに、極めて放射線の値の高い谷間に入った。

「19.6(μSv/h)。周りの景色は、何となく森林浴で歩けるような風景じゃないですか。」

ここに存在する放射線の量は、最低でも1時間当たり20マイクロシーベルト(20μSv/h)。東京の通常の値の500倍だ。

「これ振り切ったまんまだよ。やばいな…。」

吉岡さんはここで避難民が身を寄せ合って暮らしている集会所があると聞き、訪ねた。

「集会所の前で19.99(μSv/h)。振り切っちゃってるからそれ以上です。」

(集会所に入る。)

吉岡「今車で放射線量を見てきましたが、中に入ると17~18μSv/h位。ずっと来る途中振り切れちゃって。結構な放射線量だなと思いますけど。ここは原子炉からどのくらい離れてるんですか?」

岩倉公子さん「27km。屋内退避圏です。」

吉岡「わりと避難区域では外側の方ですよね。皆さんはいつからここにいらっしゃるんでしょう?」

岩倉公子さん「12日からです。地震が3月11日2時46分。12日の晩からいますので、18日目です、今日で。」

池田トシ子さん「ここに行けば、食べ物もあるし何とかしてくれるから行きなさいって言われて来た。その時150位の人がもう大勢いましたね。私たちはこれ(犬)がいるから車で寝てましたね。」

池田誠一さん「ここは最高200人いた。もう全員避難したんですよ、バスでね。俺はペットがいるからじゃ残るって。」

池田トシ子さん「ここに残った人たちは…」

吉岡「それぞれ事情がある。聞かせてください、その事情を。」

池田トシ子さん「これ(犬)置いて向こうに行ったら、中にはもちろん入れないし、車の中で寝なきゃならない。それよりまずガソリンが無かったんですよ、みんな。ガソリンもない、ペットもいるということで、じゃあ、屋内退避ならばここで。食べ物もある程度あったし。だから、いることになって。」

佐藤雄一さん「私はもう燃料が無くて、真っ暗になってからとぼとぼ上ってきたんです。車で。できるだけ燃料減らさないようゆっくり来たんです。AMラジオ聞きながら上がってきたんですけども、どうしても電波が悪くて。たまたまその辺りで電波が良かったので、この下の石井商店さんのところでぐるっと回って、一晩ここで野宿しようかなって考えてたら、ここの光が見えたんです。その時は車の中で。大勢いた時は。」

 後ろ髪を引かれて自宅から離れられ切れない人もいる。

岩倉文雄さん「遠くへ行けない事情が私もありまして。犬と猫のペットを(家で)飼ってるんです。来るときにエサをいっぱいあげてきたんですけど、帰れるところにとどまろうという考えがあったんです。現在も4日位ごとにエサやりに帰って。さっと帰ってきて。」

岩倉公子さん「私も以前、原発に勤めてた時もありました、30代の時。その時は勤め口があってみんな意気揚々としてましたけど、いまこのような生活を送って、もう毎日が、夜寝るときも、朝起きても、虚しくて、悔しくて。原発東電がすごく憎く思ってます。犬猫のことも考えるとね。他人から見れば何そんなって考える人もいるかもしれないけども…。(犬猫に)じゃまた来るからって帰ろうとすると、犬追っかけてくるんですよ。どうしようもないから、(紐を)すぐに外れるような感じに、力入れたらとれるような感じにして。次の20日に行ったときはとれてました。追いかけてこられたら困るからね。」

 12日の1号機。14日の3号機の爆発などで放出された放射能は、この谷間に漂っていたと考えられる。それが雨や雪によって地表に沈着し、この谷を高濃度の放射能で汚染した。

 3月28日に文部科学省が発表したデータによれば、避難所のある赤宇木の放射能レベルは、1時間あたり45マイクロシーベルト(45μSv/h)。1日外にいれば、一般の人の1年間の被曝限度量以上の放射線を浴びることになる。

 赤宇木の集会所に避難した人たちは、役所からの支援が得られない中、野菜や米を地元から調達し、しのいできた。卵は近くの養鶏場を手伝いに行ってもらってきた。

(調理の様子)

「1個ずつ揚げたいな。2個ずつ揚げようか。家庭持ってる人は1個で我慢してもらおう。」

「そうだね。」

「独身者がいるから。」

(食事風景)

 集会所で暮らす3組の夫婦と4人の独身者。木幡辰雄さんは元路線バスの運転手。末永さんは造園業者。唯一の40代の佐藤さん。そして、釣りの好きな吉田さん。原発から27kmの地点の止まり木のような集会所で、元々見ず知らずの10人が肩寄せ合って暮らしてきた。しかし、そこは屋内退避指示区域の中でも、極めて高濃度の放射能に汚染された場所だった。

  * * *

玄侑:間違いなく、今回みんな裸になったんです。服を脱がされ、皮膚を抜かれ、肉も殺がれ、そして骨だけになっている状態。そこからもう一回始まるしかないんですけども、福島県の場合は、その状態でまだ流浪しなきゃならない。そこに何を言えるのか。今うちの町のキャパは600人位かな、と町当局は言ってたんですが、3,000人の方が押し寄せて。結局2,000人を一晩は受け入れるんですが、ちょっと無理だということで1,500人。しばらく1,500人で、1170人になったりだんだん減っていくんですね。というのは、もうちょっと遠くにいないと安全じゃないだろうという思いが出てくる。あまり好ましい居住環境ではないということですよね。その辺のセンサーが人によって違います。一つの家族の中でも、例えば、家のご主人が「お前たちはどこかに避難した方がいいんじゃないか」と言う。孫とか、若夫婦とか(に対して)。そういうことが起こってくるんです。そうすると、家によっては「俺たちは行くけど、爺ちゃん婆ちゃんも行こうよ」と言うんだけど、爺さん婆さんは「いや、残る」と言う。ある種の(家族内の)分裂が起こっている。放射能は若い世代ほどダメージが大きい。だから、この町を離れた若者が「町全員で逃げるというふうに判断できないのか」と町に働きかけてくるらしいんです。自分の親であっても説得できないからです。「離れてしばらく逃げようよ」と言っても聞かないわけです。でも、町がこぞって出るということになれば自分の親たちも町を出てくれるだろうと。そういう複雑微妙な問題も起こっています。

吉岡:玄侑さんは、原発事故がどんどん拡散していくのを見て、ここから逃げ出そうとは思わなかった?

玄侑:そういう誘いはあちこちから来ました。ただ、檀家さんが、特にお爺ちゃんお婆ちゃんが「放射能で危ない」と言われているのに来るんです。お世話になった人に彼岸花をあげなきゃ、と。国が「気にするな」とずっとインフォメーションし続けてますよね。ですから、今の告知の仕方に対する問題点は感じます。ただ、檀家さんが、場合によったら一家の中で分裂している。一部は逃げてる、お年寄りは残っている、という状況の中で、この土地を愛しこの土地に埋まっている先祖に彼岸花まであげてここに留まる、という人と一緒にいなかったら、私はおそらく言葉を発することができなくなる。今一番苦しんでるのは、ここから避難している人たちだと思うんです。ある意味流浪している。今どうなってるのかが一番気になる。

  * * *

 原発から運ばれてくる放射能への不安。正確な情報が不足し、混乱が広がっている。

 玄侑さんが暮らす三春町。3号機の建屋が爆発した15日、原発の方角から東風が吹いた。高濃度の放射性物質を恐れた町は、40歳以下の住民に「安定ヨウ素剤」を緊急配布。自治体として唯一服用を薦めた。被曝による甲状腺癌の予防薬だ。効果は24時間とされ、放射性物質が飛来する直前に飲む必要がある。副作用の危険もあったが、放射線量が発表されない中での決定だった。

三春町保健福祉課 工藤浩之さん「7,248人です。世帯数で3,303世帯。結果、95%の人が取りに来ていただいたので、それだけ不安が強かったんだと思うんですよね。」

三春町長 鈴木義孝さん「放射性物質の汚染は、われわれ全く初めてでありますし、住民が非常に不安に思っています。ですから、三春町は50km圏内ということで、物資なども途中まで来て引き返すということも結構ありました。放射線の数値は、皆さん方不安に思っているわけですから、そういうのを継続して、安心していただけるような情報の出し方を工夫していただければと思います。」

 原発から45kmの三春町。ここに放射能が到達したことをいち早く計測した人がいる。元高校教師、佐久間寛さんが放射線検知器を購入したのは、1986 年チェルノブイリ原発事故が起きたときだった。しかし、その後四半世紀。幸いにも異常値を示すことはなく、検知器はいつか埃を被っていた。

佐久間寛さん「その後ずっと年取ってお蔵入りしていたんだけども、残念なことにこれが日の目を見ちゃった。」

 佐久間さんが久しぶりに検知器のスイッチを入れたのは地震の2日後、3月13日のことだった。数字は一分間に検知器が検知した放射線をカウントしたものだ。値が急上昇し始めたのは、3号機の建屋が爆発した翌日、15日のことだった。三春町役場が安定ヨウ素剤を配布したその日だ。最高値は14時16分の 1,153(cpm)、1時間あたりおよそ8マイクロシーベルトに相当する。東京の通常値のおよそ200倍だ。

吉岡「13日から今日に至るまで、どんなことが読みとれますか?」

佐久間「やっぱり、東風の後はデータが上がるなと。」

吉岡「原発がある方角ね。」

佐久間「女房がこれ(計測数値と風向きのデータ)を取りながらね、どうも風向きと関連があるようだと。このEが出るとね、その後でふっと(数値が)上がる動きが見られたもんですから。」

吉岡「Eってのは東(East)ですね。」

佐久間「Eが多くなると東よりが多くなると。」

 政府や役所、そしてマスコミの情報に不信感が広がっている。佐久間さんは独自に計測したデータを市民に発信し続けている。

吉岡「今原発がこうなってる、ということを色々発表してますよね。ああいうものをご覧になってて、正確に伝わってると思いますか?」

佐久間「えっ、いや正確さもだけど、昨日の話を今日言ってるわけだから。危ないと言われた時にはもうわれわれは駄目になってる時じゃないかという気ですから。別にそれを本気になって信用する気は毛頭ないというか。」

  * * *

玄侑:ああいう、飼い慣らせるはずのない龍を飼ってた。プルトニウムを再利用するMOX燃料を使ってるわけですよね。プルートーって何語でしたか、「地獄の王」っていう意味なんです。だから、人間って地球の上に仮住まいしてたんだなって、今回瓦礫となったものを目の当たりにして強く感じた人は多いと思うんです。仮住まいするにしても仮住まいの作法があるんじゃないか。

吉岡:その下にしかも龍がいる。

玄侑:そう。仮住まいで龍が飼えるのか、というね。

吉岡:われわれの表現力、想像力、夢というのは、仮住まいの中で見てきた表現力、想像力、夢だという。それをもう二段も三段も大きくしていかないとね。われわれ人間の世界でもどうやって組み立て、再生していくのか、生き直していくのかというのが見えないな、という気が本当にしますね。

玄侑:今回の経験をして、私はよくお葬式の時の時にもよく言うんですが、 人が一人亡くなったんだし、もし死に甲斐があるとすれば、周りの人がどれだけ変わったかということしかないわけですよ。あなたが死んでも誰も何も変わらなかったというのは、最も死に甲斐がないじゃないですか。これだけ大量の人々が亡くなったわけですから、どれほどの変化をわれわれがするかということが今問われている。そのための材料は無数にあります。それと、想像力を働かせるということです。

吉岡:それがないと、何も得たことにならない。この経験を組み入れたことにならないと思いますよね。

玄侑:きっと変わると思いますよ、この国は。そこは肯定的に、明るく思っている。

吉岡:そこはね。そうですね。

  * * *

 古(いにしえ)より春を心待ちに暮らしてきた三春町。玄侑さんが住職を務める福聚寺は、樹齢450年とされるしだれ桜をはじめ、300本を超える桜の名所として知られている。

 桜守(さくらもり)の村田春治さんは、40年にわたって三春の桜を育ててきた。昨年寺の桜から種を取り、裏山に植えた。土地を見守る桜の跡継ぎ。太い根を張るには種から育てるのが一番、と村田さんは言う。

村田「それも桜。3本か、4本を残して。」

吉岡「出てきたのを間引くのに今が一番いい季節なんですか?」

村田「もうそうなんです。」

吉岡「土はいい土なんですか?」

村田「いい土だよ。」

吉岡「大丈夫なんですか、放射能は?」

村田「大丈夫だ。千年目標にしている。移植したやつは駄目なんだ。だから、それを考えて、ここで実生(みしょう=種から育てる)でやって成長させないと駄目なんだ。」

玄侑「村田さんはね、この土地に根っこを生やしているから強いんですよ。実生みたいなもんですよ。」

 これからもこの地で生き続けようと決めている二人。千年の桜が枝を張り、花を咲かせるその時を楽しみにしている。

  * * *

 3月30日、国道114号線を北西方向に急ぐ車列があった。赤宇木の避難所を脱出した人々だ。犬を連れていた池田夫妻は熊本の実家に戻り、総勢は8人。向かう先は二本松市東和町に設けられた避難所だ。

 避難所に入る前、8人はスクリーニングを受けた。衣類などに基準以上の放射能が付着していれば避難所を汚染することになるからだ。

「服も全体的にちょっと高い。洗濯してもらったら下がると思いますので。なるべく早目に着替えてください。」

「水で洗浄して…」

 末永善洋さんは、靴と右手に基準を超える放射能が検出され、除染を受けることになった。赤宇木の集会所では携帯電話が通じず、末永さんは電波事情の良い場所まで度々出歩いていた。

 8人は自分たちが2週間以上にわたって暮らしていた場所の危険性を改めて知った。結局、末永さんは靴を処分し、身体を洗って、基準を満たすことができた。

 8人が向かったのは東和町の文化センター。浪江町の避難民の受け入れ窓口になっている。

(分厚い名簿をめくっている様子)

 町民の安否情報の名簿だ。

佐藤さん「うちの母がどこに行ってるかなと思って。」

 末永さんは、自分自身が行方不明扱いになっていることを知った。

末永さん「探してるって、俺のこと。俺、死んだか何だかで探してんだと。」

「携帯のかかんないとこにいたから。放射線の一番(強い)、飯舘の3、4倍もするとこにいたから。」

 8人は同じ体育館にまとまって暮らすことになった。原発周辺住民の流浪の生活がいつ終わるのか、誰にも分からない。

テロップ「原発災害の地にて 対談 玄侑宗久・吉岡忍」

出演: 玄侑宗久 吉岡忍

語り: 渡邊あゆみ

取材協力: 木村真三 七沢潔

撮影: 北西英二 服部康夫

照明: 福富明

音声: 名越大樹 森下正一

映像技術: 八木淳

音響効果: 高野寿子

編集: 樫山恭子 榎戸一夫 吉岡雅春

取材: 大森淳郎

ディレクター: 梅原勇樹 池座雅之

制作統括: 増田秀樹

(終)

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