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両親の介護も一段落 双極性2型障害と気長に共生中

距離感

はあ、疲れた…。朝からずっとお絵描きをしていて、やっと完成したのはいいけれど、もうこれで続けて描くのは限界かも、と考えている。そんなに凝った画面じゃないんだけどなあ。集中力が必要なのはどれも同じみたいだ。これで一段落させてあとは文章の方に集中しよう。…なのでサイトにアップ出来るのは、もうちょい先になりそうな。

「風神秘抄」もさっき届いたんだけど、先に自分の文章のまとまりをつけてから読もうと思っているので、これもちょっとお預けですね(汗)一度に一つのことしか考えられない頭なので、うまく切り替える自信がないのね。やれやれ。

Web拍手ありがとうございます。

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自分のキャラクターがらみの物語をまとめようとすると、自分がなにを描きたいのか徐々に見えてきたりするんだけど、私の場合はどうもおおもとのテーマが愛の物語のようだと気付いた。

愛といっても必ずしも恋愛である必要はなくて、肉親の愛だったり、友情だったり、師弟の愛だったり、もっと広義な博愛だったり、いろいろある。そういうバリエーションを描きたいのかもしれないなあ、と思う。

愛と信頼と交流、なんていうとそのまま人の人生の目標のようになりそうだなあ。…でもそれって洋の東西も古今も問わない人間の永遠のテーマだという気がする。哲学的な答えを求めてさまよう魂は基本的に孤独なものだし。でもその孤独をひとときにしろ癒すのはやはり愛しかないのよね。

現実の世の中には肝心の「愛」をどこかに忘れ、欲望を愛情だと勘違いした犯罪があふれてるけど。ただ単に欲望だけが主体になってしまうと、それはどこまでもエスカレートしていくものでしかないから、いつまでたっても充足することもないのよね。それに気付かない人間は何度でも同じ過ちを繰り返してしまうのね。哀しいことだけれど。

仮想現実に遊べるのは本当に大人の余裕かなあ、と思う。未熟な人間だとしばしば深入りしすぎて、現実と仮想世界の区別が出来なくなってしまう。その行き着く先が犯罪だったりしたら哀しいなあ。

私も本当に子供の時から空想壁があったので、あまりに昔の記憶だと、それが現実の過去の記憶なのか、それとも夢で見た仮想空間の記憶なのか、時々判別しにくい思い出がある。特に幼児期に体験したことはその後引っ越したことによって、余計に曖昧なものになってしまうんだけど。

思春期以降も実に多彩な空想世界に生きてきたけれど、小学5年生の時に突然、空想世界とほどよい距離を持つことを認識してしまった。それまでは子供ならではのファンタジーな世界で生きていたのだが、それが突然に「もう子供じゃない」という意識変化が起きてしまったのだ。あまりにいきなりの変化だったので、いまだにその時のことを覚えている。梅雨の晴れ間の爽やかな夕刻だった。

…物語とか絵だとか、そういう形で自分の中のファンタジーを本格的に表現しはじめるのはそれ以降だったと思う。堂々とファンタジーを生かしておく場所を紙の中に見つけたのね。具象化することで、現実を生きるために必要なほどよい距離感が生まれるようだ。こういう距離を見つけられた人間は幸せだと思う。

しかしながら、その距離を見つけられずにファンタジーと現実の境界が曖昧で、あげくに犯罪にまで至ってしまう不幸なケースも多いのね。方向性を見つけられるように手助けするのも大人の責任かもしれないと思う。難しい課題だけれど。

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