つれづれ日記ー逝春抄ー

お絵描きと介護で多忙な日々 双極性2型障害と気長に共生中

ともだち

曇り空。そろそろ手袋が欲しいような気がする。今日は母と二人で少しだけ食料品の買い出し。お裁縫の方は昨日ワンピースとエプロンができて、でも指先が痛いのでここで一旦終了。今日はぼちぼちとクロッキーブックに向かっている。相変わらずこのブログの使い方はよくわからない。もともとタグの知識などがほとんどない状態で使っているからなあ(汗)なんにもわからない状態でなんとなくやっているのが私。そのうち多少なりとも賢くなれたらいいんだけれど。

Web拍手ありがとうございます。>春音さん、京都も昨日から結構寒くなってきました。いよいよ冬本番の気配ですね。

同窓会の話題から、ついいろいろと友達について考えてしまった。人はどの程度のおつきあいをもって「友達」と定義するのだろうか。中高校生の頃、自然発生的に友達のようなものができる。なんとなく家が近くて、一緒に登校したり、お昼を一緒に食べたり。女の子同士だとなぜだか休み時間のトイレにまで一緒に行ったりするんだよね。中学生の時はやたらとスキンシップが多くて、自然発生した友達グループできゃあきゃあ言いながらたむろしていた記憶がある。それはそれで日常生活には充分な友達関係だったし。たまに映画なども一緒に行ったりしていた。そういう関係はクラスが違ったりするとまた自然消滅したりする。中3の時、それまで同じグループにいたほとんどの子とクラスが分かれてしまった。新しいクラスにはすでにそれ以前からのグループが存在していて、途中で仲間に入るのはまた難しかったり。ちょうどそのころ私は歴史物の読書にはまりかけていたので、休み時間はもっぱら読書に費やしていた。

高校生になった。中学時代のグループの子と、またクラスが一緒になったりして、延長のようなおつきあいが始まる。いつのまにかグループに新しいメンバーが増えていたり。この頃から身近な友達グループにちょっとした違和感を感じ始めた。他愛のない会話がまるで面白くないのだ。年頃の少女たちらしく、その頃の話題はもっぱら男の子のことで、おつきあいを始めている子ならともかくとして、関心がない私からすると、そういう話題は結構どうでもよく思え、そのうちにそういう会話に時間を費やすのが勿体無く思えてきてしまった。そのころの私と友達グループの子たちの価値観の差がはっきり見えてきてしまったのだ。私は結構生意気な子供だったのかもしれない。哲学というと大袈裟になってしまうけれど、もっと広く深いテーマで話ができる友達が欲しいと思うようになっていたのだった。

高2の秋、私は膵臓を悪くしてしまい、長期の療養を余儀なくされる。本当なら入院を進められたのだけれど、無理を言って自宅療養していた。この休暇がきっかけで、それ以降私は友達を学校の外に捜し始める。自分が好きな創作の話もできたらいいな。手近にあった漫画雑誌の文通希望欄に投稿してみた。「あなたのイラスト譲ってください」と。驚くほどたくさんの反応があった。ほとんど自分と同年代の少女たちから。その中から何人かの相手と文通が始まった。「私達って漫画が好きだよね。こういうのを漫研作って、会報みたいなのを作ると面白いのではないかしら」ということで、活動が始まった。その頃はまだコピー機すらもあまり一般的ではなくて、性能もよくなくて、紫の湿式コピーが会報。原稿はなんとあのうすっぺらいトレーシングペーパーに描いていた。会員も徐々に増えて、毎月毎月、分厚い会報のコピー、編集、発送などなど、きちんとこなしてくださった会長さんにはいまでも頭が下がってしまう。みんな若かったのよね。

この会報がきっかけで、一人の友達に出会う。遠く離れた所に住んでいて、一度もであったことがないにも関わらず、彼女が描いていた原稿は自分が描いたもののように感じられたのだ。その時の衝撃は忘れられない。「あ、もうひとりの私がいる」と思った。彼女の方も同様に思ってくれたようで、会報から離れたところで手紙のやりとりが始まった。それはその後現在に至るまでに数百通、という手紙の束になって手許に残っている。長距離電話もした。高い料金を気にしながらも、話しはじめると2時間くらい止まらない。もっともっと、と願ってしまう。この共鳴はなんなのだろうか。

お互いに自分が描きたいキャラクターの話など、交換日記の手紙を書いていた。パニック障害ででかけられない私の所に

、旅好きな彼女が何度も来てくれた。「興福寺の阿修羅像に会うのと一緒よね」と。そのうち私達は原稿の合作を始める。お互い、相手のキャラクターの反応まで予測できるくらいになっていたので、B4の大きな封筒が東京と京都のあいだを何十往復もした。そのかたわらでそれぞれのストーリー漫画も描いていて、やがてそれは合作イラスト二十数枚、百数十ページの漫画本、という形の合作本になった。この原稿を描いている間は特に、彼女と私のあいだでバリバリとテレパシーが通じていた。創作の至福の時間。

「世の中には二種類の人がいるのよね。生きる、ということについて、考えなくても生きていける人と、考えなければ生きていけない人と」そういう話をしたことがある。私も彼女も後者の方だった。いつも一生懸命に考えていた。たとえ答えがでなかったとしても。そういう話ができること。それこそが私が十代の後半に切望していた友達の姿だった。自分の魂の半分ってこうなのかなあ、と感じていた。その時、私は友達に恋していた。多分、彼女のほうも。どちらかが男だったなら結婚していたかもしれない。そういうふうに感じられる出会いがあったことが私には一番の幸せだった。死ぬまぎわにはきっとこの出会いを感謝して逝けるだろうなあ、と思っている。

その後、彼女は遅い結婚をして、さらに遠い東北の方へ行ってしまった。毎日が多忙らしくて、いまではなかなか思うように手紙などのやりとりが出来ないのが寂しいけれど。でも離れたところで彼女が幸せでいてくれるなら、私も幸せな気がする。本音を言えば、こうしてネットでやりとりできたらもっと嬉しいんだけどね。

…珠玉の出会いを天に感謝している。たった一人の私の親友との。