お互いさま おかげさま ありがとう

両親の介護も一段落 双極性2型障害と気長に共生中

自分が選んだけど、自分を責めなくてもいいこと

 

予約投稿しておいて、行けるなら母のところに行こうかな、と考えています。

 


思い出はプライスレス

 

昨日、夕食を食べながら、タウン情報誌を眺めていたら家計簿診断のコーナーがありまして。そういえばこれ母がよく眺めていたな、と思いつつ見て見たら、昨日のご相談は88歳の女性でした。88歳かあ…。父が生きていたら同じだなあ、と思ったり。

 

で、その方、年金は月16万だそうです。一人暮らし。貯金が1000万で、老人ホームに入居したら売却可能な自宅マンションが3000万。

 

あの年代の方は本当に無駄遣いが出来ない世代だから、地味に地道にコツコツ貯めてこられたんだと思います。父も本当にものを大事にする人で、死後も仕事に必要だったスーツ以外はほとんど処分する必要がありませんでした。つつましく生活する人でした。

 

だから、この88歳の女性にも、身体が自由に動けるうちに楽しんでいいもの見て、美味しいもの食べて豊かな気持ちになっておいて欲しいなあ、と思いました。老人ホームに必要な費用は充分にあると思うな、マンション売ればなおさらに。

 

見知らぬ人のなにを案じているのやら?と自分でもおかしくなりましたが、ファイナンシャルプランナーさんのアドバイスも同じ感じでしたよ。死ぬ時にモノは持って行けないけど、思い出は持っていけるから。そういう記憶って大事ですよね。

 

(1000万&3000万あったら、すごく気が楽だろうな、と思いつつ、私にはお金を増やす才能もありませんね)

 

 

 

時を越える美と瞬間の美


美というものには時を越えるものと、その「瞬間だけ」の美とがあると思っています。前者は主に美術品などですが、後者は人間関係のものが多いと思います。

 

時は止めることが出来ず、移り行き、人は徐々に老いてゆきます。

 

若さと才能が見事な花になって開く「時分の花の美」。若いアスリートたちや、アイドルや俳優&女優さんやそういう人かな。学校の中でもそういう「花」になる人っていると思うな。若いということはそれだけで美しいので…。

 

小児科勤務の経験がある私ですが、「はい、あーんしてね」と後ろから子供たちのほっぺを固定していると、そのつるつるのお肌にかなうわかないじゃん!といつも思ってました。この世に生まれてまだ数年のお肌の気持ちよさと言ったら… (^_^;)(あぶないな)

 

そういうのも美、ですけど、大人の人が咲かせる瞬間の美、名演、名舞台、名演奏、熱唱などなど、その瞬間にしか生まれなくて、あっとうまに消えていくけど、それを見た人の心の中にはいつまでも焼き付いている美、というやつですね。

 

自分も歳が歳なので、このごろそれがとても愛おしく感じます。人生でそういうものに出会う機会が多く持てた人は幸せだと思います。

 


ただ、これも自分が不幸だと感じていたりすると、出会っても気付かないことがあって、勿体ない限りなんですよね。

 

 

 

なんで自分が…とは思わないなあ…


そういえば私は多分「なんで自分がこんな目に合わなければいけないんだ」ということを思ったことがないなあ…と。記憶にないからおそらく間違いじゃないと思います。

 

で、考えてみた。よく人は自分の不幸や不運を嘆くけど、その気持ちの中には「自分がこうなりたくてなったわけではないのに…」というのがあるのではないかと思います。

 

それは多分なにもかもを自分で決めてこれなかったことの裏返しとしてそう感じるのではないのかな?と思う次第です。「こうなってしまったのは誰かのせい」と思う方がきっと楽なんだろうな。

 

私は記憶にはっきり残る限り、中学生になってからのことはほぼ自分で考えて決めてきたような気がします。中学生以降の人生もあまりにもいろいろあり過ぎて、全然順調じゃなかったけど、もともと自分が他の人とは違う価値観の持ち主だという自覚もあって、お絵描きという北極星みたいな存在があったから、他は全然人並みじゃなくても気にならなかったなあ、と思います。

 

そもそも不幸なわけじゃないから。

まあ、いまだに苦難は終わっていませんが、自分でも意外なほど、平穏に近い気持ちでいます。

 

自分で決めてきたから嘆く意味がないんですよね。理不尽に思えることでも、きっと隠れた遠因が自分の中にあるんだと思います。鏡のように自分に似た人が身近に存在するかもしれませんしね…。

 

普通の人でも「憑き物が落ちた」と感じることってあると思うけど、意図的に分離してこの前落とした死神=希死念慮はあれから帰って来ないので、非常にありがたいですね。厳しい現実にもわりと平常心に近く対応出来る。希死念慮がないだけで、すごく心強いです。希望が抱けるから…。強くなれるし。

 

もしかしたら、いまの私、あんまり怖いものがないかもしれません。そういう気がします。

 

死神を落せる陰陽師とかの想像に走ってしまいそう (^_^;) …医学的に貢献できたらな。

 

 

 

 

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思考と経験はおのずと文章の記録になる

 

気がつけば長編に…?

 

このあいだから、「パニック障害をいかにして克服したかという体験記」みたいなテーマの文章を書いておりました。

 

このテーマの文章はいままでにも書いていますが、それの集大成みたいな感じで書いてみようと思った次第です。以前の記事もいくらかは流用していたりしますが、加筆訂正もどっさりあったので、しまいには自分で読み返してもわけがわからなくなってしまい、第三者の目で見ていただいて、おかしなところがあれば修正します、という大胆なことをお願いしてしまいました(^_^;)


もとの下書きはMaciText Expressで書いていたんですが、これは文章情報がわかりやすく表示出来ます。

 

で、これって何文字くらいあるの?と思って見てみたら、20,000字を越えていたという… (ーー;)

 

20,000字というのは現役の大学生にお聞きしたら、「引用部分も含めた卒論の長さ」なんだそうです。400字詰め原稿用紙に換算して50枚…。微妙に中途半端な長さですね〜。

 

ついでに調べてみたら、それの5倍、10万字前後で大体新書本の長さだそうです。本のわりに意外と短いような気がします。

 

そう、意外に短いんですよね、本の原稿って。

 

そうすると、4年近いブログの記録を300ページくらいの文庫本にしようというのがやっぱり相当無謀だったわけで、やりたいとは思ったけど、「Ready for Takeoff」は、やはり幻のままでよかったのかもしれません。

 

haruusagi-kyo.hateblo.jp


「本を作る」ことに興味も関心も高い私ですが、今回は具体的な原稿の中身の文章量についてひとつ勉強が出来ました。いや、きっと現実に役立つことはないと思いますが… (^_^;)

 

 

みなさんそうかどうかわかりませんが…

 


でもね、それで思ったんですが、長い間ブログを続けている人は、自分に興味あるテーマ、関心によって、本が出せるくらいの力があるんじゃないかなあ、と…。それだけ文章を書く修業は出来ている気がします。

 

私はデジタルデータの保存性をあんまり信用していないので、そういうまとめみたいな紙の本が気軽に出せるといいなあ、と考えてしまう次第です。

 

イラストだって、デジタルデータですが、それを画集の形にするのって不思議と安心感があります。やはり紙の本は世代を越える可能性があるし…。

 

粘土板の楔文字とか、石碑とか見ていると、そういう情報の長い命を感じますね。和紙に墨で書いた本も、何世代に渡って書き継がれてきて、それが残っているわけだから、受け渡したいと思った人たちの願いも込められているわけで…。そういうことを想像していると非常に楽しいし、ますます紙の本LOVEという気持ちになるわけですね… (^_^;)

 

私、紙の本だけは断捨離したくないです。私が死んだら、私の蔵書はちゃんと読んでくれる人たちがもらってください。それが無理ならまるごと図書館に寄付して欲しいですね。

 

こういう形で受けついでいけるのは人類の財産だもんね (^_^)

 

 

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歳を経ると頑固になるのか、より「自分らしく」なるのか?

 

DTPの仕事も面白い

 

自治体の仕事のチラシですが、第一案の原稿はおおまかに出来ました。10日くらいまでに途中経過の提出をしてもらえばいい、とのことなので、もう一度見直してみます。

 

デザインの仕事はお客さんの話をお聞きしているうちに、おのずとイメージが浮かんできたら、それを目に見えるものにしていく作業で、本当はぼんやりしたものがお客さんの頭の中にもあるのだと思います。その曖昧なイメージをキャッチして形にしていく作業が実は結構面白い、と思っています。

 

私の中にはほぼ映像で存在して、言語化するのは難儀だなあ、というイメージが山のように漂っているので、それを目に見えるようにしていく楽しさがデザインの中にはあると思っています。そういう説明しか出来ないんですが、お絵描きとデザインは映像的な分野のものだと思っているので…。

 

共感覚がある人ならもっと面白いだろうな、と思いますが、私の場合は音楽を聴いて映像が浮かぶくらいだから、とても共感覚だとは言えません。でも直感はほぼ外れないんだよね。不思議な気もしますが…。

 

 

どうしようもなくユニークな私 (^_^;)


なんとなく昨日の記事の続きですが、昨日の記事にゆきにーさんから「「突き抜けちゃってる」と表現していいものですよ。」というコメントをいただいたので、あ、それはそうかもなあ、と自分でも思った次第です (^_^;)

 

いやー、これは実はかなり昔から自覚はありまして、特にアドラー心理学が注目されるようになってから、私もよくわかるようになりました。おそらく私の価値観とか人生観とか、そういうものはいま現在の若い世代の人よりも多分未来に行ってるなあ、と…。いずれ世界中がこういうふうに思える世の中になるといいなあ、と切に願う次第ですが…。

 

ただ、そういうぶっとんだ価値観の中でも、私の中では変わらないものがあって、それが情的なものなんですよね。これだけはもしかしたら現代よりも昔に豊かだったものかもしれません。人情というか。それはどんなにAIが進化してもカバーしきれないもののような気がします。

 

で、私の中にはその新しいものと昔ながらのものが矛盾なく同居していて、それが私の中心を作っているような気がします。

 

…ということで、ふと気がつきました。これってINFJの性格そのままじゃないかなあ、と。

 

気がついたら、一度削除されていたページが戻っていたので、再リンク致します (^_^;)

 

infp.info

 

ここの解説、目茶苦茶よくわかります。若い頃ならいろいろ迷いもあったでしょうが、いまはそれもありません。この年齢になると、本当になにもかもが統一されてくるなあ、と思います。

 

ここに書かれている職業、なんでも出来そうな気がしますが、教師に関しては自分が生徒だった時代に、厳しい視点で見ていたらしく、尊敬出来る教師に出会えなかった不幸はあって、とても目指す気にはなれませんでしたが…。

 

ひとりになれる時間がないと多分気が狂うか病気になって死にますね。政治家は無理だな。あの職業はあんまりものを感じない人じゃないと出来ないと思う。(ごめん、褒めてません)

 

 

 

これも才能〔ギフト)なのだそうです


今朝、さらにゆきにーさんからレスポンスをいただいたので、そちらもリンクさせていただきますね。

 

yuki-2021.hatenablog.com

 

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これははるうさぎさんがある種の境地に立っているから言えちゃう事なんですよ。好きなことを迷うことなく一心不乱に実行できるってのは才能なんです。それはギフトです。羨ましいなと思いますよ。僕は趣味をやるにしてもいちいちメタ的な視点で「これはやったところで人生のなんの役に立つんだろう?」悩んでしまうから中途半端な事しか出来ない。まぁ限られたモチベーションをなんとかやりくりしようと思います。

 

 

…そうか、これってギフトなんだ。あまりに自然に私の中に子供の時からあるから、特別だとは考えたことなかったです。でも確かに、これが自分の核になっているから、軸もブレないし、迷いがない選択も出来るし、やってみて駄目なら、いさぎよく手放すことも出来ますね。なんでも主体的に決められるし。

 

まわりからどう見られようが思われようがどうでもいいので、あとは適当ですが… (^_^;) もっと技術的な才能があったら、職業にしているかもしれませんが、描きたいものを描きたいように描けなくなるなら仕事であることはむしろ邪魔なんですよね。それくらい私の本質だし、幸福感とも現実を生きる力とも関係が深いと思います。

 

自分と他人を比較しない、まわりの評判を気にしない、まさしく「嫌われる勇気」が必要ですが…。

 

でもこれから先、こういうことを主体にして人生を選択し、切り開いていく人は増えるかもしれませんね。

 

物質的なものじゃないんですよね。多くの人がそれで魂の満足度を高めていけるといいなあ、と願っています。自分が幸せな人が増えれば、世の中がもっと優しくなるのでは…?と淡い期待を寄せつつ、ですが…。

 

 

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