弟が腰痛を訴えています
弟が「腰が痛いから整形外科に行こうと思うんやけど…」と言うので、「行けば?」というと「最初の2、3回でいいから付いてきて」と…。「整形外科(近所だし)そこやん」と言うと「距離の問題と違う」んだそうで…。
仕方がないからご飯を作ってからついて行こうと思います。
早いこと病院くらいひとりで行けるようになって欲しいです。
…なので予約投稿しておきますね。
記憶の原点は祖母の話
明治30年生まれの祖母は、母親が早くに亡くなって、父親が再婚するために、邪魔にならないように、とわずか8歳で妹と一緒に奉公に出され(ひどい話ですよね)、小学校にも1、2年しか通っていませんでした。ですが自分で努力したのだと思います。新聞も読みましたし、幼い私にいつも絵本を読んでくれたのも祖母でした。
その祖母がよく言っていたことがあります。「おてんとさんが見たはるから…」と。ほとんど満足な教育を受けていない祖母ですが、この言葉は詳しい説明不要で私の心の中にすーっと入ってきて、いまでも多大な影響を与えていることに気付きました。
お天道様が見てる
読み方:おてんとうさまがみてる・おてんとさまがみてる
別表記:お天道様が見ている
人間の悪事に対して、ほかの人間が誰も見ていなくても太陽はきちんと見ているのだから、どんな時でも悪事ははたらかぬべきだと説く語。お天道様がそのまま太陽を意味することもあれば、神や仏といったものの象徴として扱われることもある。
ー実用日本語表現辞典ー
宗教なのか道徳なのか?
最近では死語に近いのかな?
「お天道さま」は神仏のようでもあり、太陽そのもの、宇宙そのものでもあり、人間の良心や倫理、道徳のようでもあります。
たとえ人が見ていなくても悪いことをしてはいけない。それは当然ですが、もっと細かなあれこれについても常に自分の良心と相談して決める上でかなりの指針みたいなものになっていたような気がします。
誰も見ていないけど、でもブレーキをかけるのも人助けのために勇気を出すのにもこの「おてんとさん」の存在って大きな位置を占めていた気がします。
誰にも知られなくても人を傷つけたり、泣かせることはしない、というのは当然ですが、誰にも褒められなくてもいいと思ったことをやる、というのもそういう感じかな?と思います。
生まれつきのマイナス要素とか、後天的なマイナス要素とか、少しでもゼロに、もしくはプラスの方向に近づけるために努力する。
アスリートみたいに人の眼に見える結果じゃないし、努力していることも人には気付かれない、そういうとても地味なことなんだけど、でも誰も知らなくても、自分自身と「おてんとさん」は知っているからそれでいいと思ってまた頑張れるんですよね (^_^;) 私は時々自分で自分を褒めてますが… (^_^;)
その正体はよくわからないけど、心の中にそういうものがあるのって、結構大事なことじゃないかな?と思います。そういうことを教えてくれたおばあちゃん、ありがとう (^_^;) 昔の人はそういう素朴な指針を持っていたのかもしれません。
おてんとさんじゃなくても満月も私は苦手ですが。どこまでもついて来る。ずーっと見られてる月の視線。人類が月面に降りても月はやっぱりどこか怖いです(>_<)
因果応報みたいなものもあるかな
おてんとさんが見てるのに、見てないつもりで悪いことをすれば相応の報いも返ってくる、ということも暗にありそうな気がするな。この辺は仏教的??「おてんとさん」=「天」でもありますよね。
「天に徳を積む」とか。これはいいことが自分ではなくても、子孫に戻ってくるかもしれないから、という感じです。これもなんとなく理解している気がします。アニミズムなのかなあ…?
うちの母は「全然知らん人でも親切にしていおいたら、いつかあんたらが困った時に親切にしてくれはる人があるかもしれんし…」と言いながら他人の世話を焼いていましたが、それもいつも見てたから自然にそう思えるようになりました。
別に自分自身に見返りはなくていいんだよね。はるか未来で関わりがあった人たちや自分の子孫とかに巡り巡っていくのならそれでいいと思っています。これを誰が知っていて見ていてくれるかというとやっぱり「天」なんですよ。
うーん…。この曖昧なものはなんだろう?と思うんですが、なにしろもう感覚的に子供の頃から自分の中にあるから…。
この感覚を持っていると絶対に悪いことは出来ないんですよ。自分の中に「天の視点」みたいなのものがあるから…。良心が痛むのはもちろんですし、まず自分が許せないです。
既成のどの宗教ともたぶん違うと思いますが、道徳的なものも含めた「なにか」のような気がします。
…すいません。結論が出ませんでした〜(>_<)